潔癖、完璧主義な人間のAll or Nothingの思考は生き辛いだろう。
絶対に間違うと疑ったことは、良かれと思って他者が提案したことを否定する、信じない人をこの場合は指す。
私もその一人だが、「疑う」ことに対して、感じたことをつらつらとまとめてみた。
まず、「絶対に間違う」と疑うことは=「「絶対に間違う」と疑っている自分」は信じている事実から。
疑うことも裏返せば、ネガティブな面を信じる、ということだ。
今までの経験則からであり、「絶対に間違う」と信じるに足る条件もあり、事実、その通りなのだろう。
別にそれは大した問題ではない。
絶対に間違う、と疑うことを決めたのは他ならぬ、自分自身なのだから。
その生き方が辛くても、意思決定したのは自分自身だ。
ポジティブな提案に対してのネガティブな反応は、前述したように経験則もあるが、自分自身が「疑う」と意思決定している点は大きい。
僅かばかりの改善があったとしても、慰め程度の改善に縋るくらいなら、現状のままで良い。
そう疑うことを心に決めているのであれば、他人が兎や角言う必要など1mmも存在しない。
しかし、もし本当は信じたいのに間違うことへの恐怖で二の足を踏んでいるだけであるならば。
四の五と言わずに行動してしまえば良いのでは?と私は考える。
むしろ、間違うことは前提のままで良い。
行動するのに理由付けは適当で良い。
例えば、自分の疑いの確信をより強固にするため、哲学の補強のためにあえて行動する。
例えば、間違うと分かっているが、お世話になった他者から提案されたので、今までの恩に報いる形で行動する。
本当は信じたいのに行動できなきのであれば、強引にでも理由付けして行動してしまえば良いだけだ。
その時に傷付いたとしても、それが自分の選択だったと納得できるはずだ。
「2位じゃ駄目なんですか?」と聞いた人がいたのが脳裏をかすめる。
2位では駄目だ、1番を目指さなければ意味がない。
2番以下は等しく無だ。
しかし、これは絶対の価値基準で考えるからそうなる。
相対の価値基準で考えれば、2位でも3位でも意味はある。
2位や3位の競争相手が居なければ1位の意味がないし、くらべることでより良い発見、発展に繋がる。
テストで言えば点数になるか。
絶対の価値基準で考えれば、100点以外は意味がない。
しかし、実際は1から99の点数がある。
100点が至高ではあるが、80点でも高得点、55点でも半分より上、30点でも赤点回避でどれも最高の結果だ。
更に世界は広くて、マイナスの世界もあれば、100を越える点数も存在する。
自分自身の絶対は、社会や他者の視点で見れば、相対できることばかりだ。
あなたの間違いは間違いではない、とする客観的な、相対的な見解もある。
しかし、それら相対的意見をはね除けて、自分自身の絶対というのは痛いほど分かる。
幾ら周りが「それは間違いではない」、と言ったとしても、「何も分かっていない」とさえ感じる絶対はある。
そう信じるに足る絶対は、意思だ。
そう決めた、そう生きると決めた自分自身だ。
故に潔癖に生きる人への答えがあるとするならば以下の通りになる。
「あなたが疑って生きると決めたのであれば、そう生きれば良い」
無責任だろうか?
疑いながら生きてきた私なりの生き方なのだが。
結句、他者には理解できないのかもしれない、と嘆息する。