ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

マジョリティはマイノリティになる自覚を。

Twitterに潜っている率が高くなっている。

ちょっと昔なら「呟くことがない」と嘆いていたのに、今では全SNSの中で一番入り浸っている。

短い文言でタイムラインがどんどん更新されていくのが、怠け者である私の性分とがっちり嵌ってしまったのだ。

 

さて、そのタイムラインに目に付く様々な情報の中で、気になる投稿が幾つかあった。

それから見えたのは「差別」という人間の深淵だ。

私が気になった投稿から、少し思考をしてみた。

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目次

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1、小児性愛者のラブドールの漫画。 

 

小児性愛者、俗にいうショタコンだ。

そのショタコンがショタのラブドールが販売して居るのを見付け、購入した話を漫画にしたものだ。

作者は「救われた」と書いていて、良い買い物をしたのだな、と私は考えていた。

 

この投稿が炎上した。

理由は「ショタコンは犯罪を犯す前に買った方が良い」というフレーズが起因だったか。

「子どもを持つ親として気持ち悪い、怖い」という旨の批判が起きた。

 

炎上後、作者は謝罪、当該投稿を削除した。

私も過去にSNSでの投稿でやらかした経験がある、きっと肝を潰したことだろう。

しかし、この炎上は私にはよく分からない。

 

人それぞれ、性癖はある。

それこそ人に言えないような、どぎつい性癖の人も相当数いるだろう。

性癖が他者に理解されないのは当然であり、そういう反応もあるだろう。

 

しかし、漫画投稿の内容は「誰にも言えなかった性癖が救われた」という漫画だ。

むしろ、同じ性癖の人にとっては朗報であろう。

性癖の発露が実際の子どもに向かうのは、現実とフィクションの区別ができない馬鹿だけだ。

 

それなのに批判者の言い分を読んでいると、逆に現実とフィクションを混同しているのではないか、と感じてしまう。

もちろん、実際にお子さんを持つ親の気持ちとしてもあるだろうが、何のためのラブドールだと考えても良いような気がする。

第一に小児性愛者もそうした犯罪行動をしてしまうかもしれないと恐れているのに、少し想像力が欠如してはいないだろうか?とさえ考えてしまう。

 

2、ポテサラおじさんの発言。

 

元のツイートは何であったか。

「スーパーで買い物していたら、総菜コーナーでポテサラ(ポテトサラダ)を手に取ったお母さんに「ポテサラくらい作れよ!」と怒鳴るおじさんがいた」だったか。

何を買おうとその人の自由なのだから、おじさんのは理不尽に感じる。

 

このツイートが一時期パズった。

一連のツイートを読んで、ちょっと驚いた。

ポテトサラダは作るのは、中々に手間暇がかかるらしい。

 

私の実家では、月2くらいの頻度でポテサラが出る。

結構な頻度でポテサラが出るから、作るのが楽なのだと勘違いしていた。

よく考えれば母は料理が割と好きな人で、あまり大変だと感じていないのかもしれない可能性があった。

 

作るのに大変なポテサラを「ポテサラくらい」と怒鳴る理不尽は、多くの人の共感を呼んだ。

しかし、私はふと考えた。

おじさんの発言は理不尽には違いないが、おじさんはどうして怒鳴ったのだろうか、と。

 

おじさんは昭和生まれの人だろう。

女性は家庭にいて、家事を担うのが当然の時代で育った。

すべての家事をするのが当然だと認識されていた時代で育ったのだから、「ポテサラくらい」という発言が出るのだ。

 

つまり、一昔であれば、「ポテサラくらい」の発言は普通だったのだ。

むしろ、おじさんは親切心から叱咤したかもしれない。

「母親なのだから、子どもに愛情を十分に注いで欲しい」という願いからの激高だったかもしれない。

 

もしおじさんがこのツイートを知ったら、目を白黒させるかもしれない。

良かれと考えて注意したら、四方八方から罵声を浴びせられるのだ。

昔にも一定数いたそうした不満が表面化しただけ、というには少しだけ同情してしまう私がいる。

 

3、新型コロナウィルスの影響。

 

Twitterとは少し離れて。 

新型コロナウィルスの影響は随所に現れている。

最早、マスクをして出かけるのは世界標準ではなかろうか?

 

1年前までは旅行に出かけるのは問題がなかった。

しかし、今では遠くに行くのは憚られる。

県外のナンバープレートの自動車の窓に「県内在住です」と書かれた紙が貼られているのが如何に遠くからの人を危惧しているかが分かる。

 

テレビ番組も演者と演者はソーシャル・ディスタンスが置かれている。

政治家も皆、マスクをして会見に臨んでいる。

世界は1年前とは全く変わってしまった。

 

新型コロナウィルスに対して「ただの風邪だ」と主張する人が一定数いる。

後遺症の問題は深刻だが、重症化の割合で言えばそれほど高くないデータがある。

半年経って、以前より怖くない印象はある。

 

しかし、「ただの風邪」と大っぴらに言えば、白い目で見られる。

マスメディアの報道で、特にご年配の方の恐怖心は大きいだろう。

重症化し易いのは高齢者なのだから、当然の恐怖心だ。

 

これが1年前であれば、「ただの風邪」であれば「薬を飲んで寝てね」で終わる。

しかし、新型コロナウィルスにかかったとあれば、下手したら自殺するまで追い込まれる。

時代は変わる、そう、時代は移り変わるのだ。

 

4、時代は移り変わる当たり前に対して。

 

今まで書いたことをながら見て、「差別」を考える。

小児性愛者にしても、ポテサラおじさんにしても、新型コロナウィルスにしても。

自分が一体、何時から、マジョリティ、多数派だと勘違いしているのか?

 

多数派とは人の数が多い方だ。

人の数が多い方が正しいとするようなものだ。

しかし、時代と共に価値観は変わる。

 

自分の性癖が普遍だとどうして言えようか?

江戸時代は衆道は普通であったが、昭和頃にはおかしいことになった。

LGBTが声高に叫ばれる今では、同性愛は認められつつある。

 

ポテサラおじさんの時代だったら、問題なかった。

今の時代だから、問題になった。

しかし、もしかしたらポテサラおじさんの発言が評価されるかもしれない時代も来るかもしれない。

 

新型コロナウィルスの対応も全然違う。

1年後、2年後と時間が経てば、また変わるだろう。

時代を読むにも、変化が急でただ翻弄されるばかりだ。

 

確からしいことは、自分の価値観がマジョリティのままでは有り得ないということだ。

時代が移り変われば、多数派から少数派に容易に変わるのだ。

Twitterのタイムラインがどんどん更新されるように、人の価値観はいとも容易く変わる。

最後に自戒も込めて、言い切らせて終わる。

 

マジョリティはマイノリティになる自覚を。