書きたいことが湯水のように出てくる、ようではない。
ウーンとうねり、首をひねり、書けないままに時間が過ぎる。
楽をしたくなるが、もう少し粘ろうとついついしてしまう。
書けない、書けない、どうしようもない。
しかし、パソコンの画面にかじり付く。
何か一言、二言、使えそうな釘を探すように考える。
昼頃から黙々と打ち込んで、今は16時である。
現在、5記事目を作成中だ。
この記事が25日分だから、26日、27日…あと6記事は打ち上げたい。
ウーンとうねり、首をひねり、書けないままに夕方に。
何のために書こうとしているのかさっぱり分からなくなる。
そう、何のために書こうとしているのだろうか?
言語化するのは必要だ。
何か思考しようとするならば、言語化しなければ思考できない。
感じたままは感じたままでしかなく、そこから踏み込んで思考するには一つ一つ意味を与えなければならない。
書けない、としかし、書く。
一つは当ブログの継続が目的だが、書かなくても良いのだ、本当は。
1000記事、1000日の節目は迎えているので、一種の目的達成はすでにしている。
書けないが書く。
書けない、のは普段、如何に考えていないかが如実に現れている。
言語化しなければ思考できないのだから、言葉が出てこないのは思考していない証左だ。
書けない、普段の日常は感覚に任せて生きている。
自己追求のときぐらいか、私が言語化に奔走するのは。
今も感覚に任せて書いている。
書けないが書く、しかし、何か言語化しようと藻掻いている。
ウーンとうなり、首をひねり、温くなったコーヒーをすする。
私は無形を言葉にして、自分を律したいのかもしれない。
楽がしたいが、書こうとする。
私の本質はこういう所かもしれない。
自分の感覚を言語化しようとする、私中心のエゴイストだ。
小難しく世の中を見ながら、一先ず一本分の言葉をひねり出した。