ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

寺山修司のある一遍の詩を考察してみた。

寺山修司の「生れた年」を読み解いてみた。

 

とあるツイートが目に入った。

児童書に載っていた、寺山修司の詩を「どういう意味?」と11歳の子どもに聞かれたけども、上手く答えられなかった、というものだ。

 

 

「わすれものをした日に読む本」に記載されているらしい。

その詩をまず、引用する。

 

生れた年  寺山修司

 

肖像画に

まちがって髭をかいてしまった

ので仕方なく

髭をはやすことにした

門番をやとってしまったから

門をつくることにした

 

一生は

 

すべてあべこべで

わたしのための

墓穴をうまく掘れしだい

すこし位早くても

死のうと思っている

 

恋人ができたから

恋をし

海水パンツを買ったから

夏が突然やってきたのだ

思うことがある 

 

小学校の頃から

いつもすこしずつ 人より

遅れたものだ

半鐘が鳴りだしたから

あわてて放火したり

包帯があるから

あわてて血を流したり

 

そして

中年になったから急いで老けて

順応について考察し

ズボン吊りを上げたりさげたり

しているのに

 

ただひとつ

そんなわたしの不条理は

わたしがかなしんでいるのに

かなしい事が起らぬことだ

 

この数年間

わたしはかなしみつづけ

それから耳をすまして

待ってみたが かなしみは

やってこない

かなしみのやつ

挨拶の仕方を忘れたか

 

わたしはふとった腹をなでながら

ありあまる人生をみつめ

観光案内図から

かなしみを買える商会へ

いく番地を

今日もさがし

明日もさがして

いるのである

 

面白い詩である。

読んでいて笑みが零れる。

こしょこしょと耳の辺りを羽でくすぐられるようなこそばゆい笑いを感じる。

 

他の人の回答もそれぞれ読んでいる。

色々な受け取り方があってそれもまた面白い。

折角なので、私見でもちょろっと書く。

 

まず、詩の解釈は十人十色、色々な解釈が合って良いだろう。

作者には意図があるかもしれないが、作人の解釈は世に出た時点で読者に委ねられる。

論文や議会書のような誰もが間違えない文書とは違って、創作物は読者の答えが答えなのだ。

 

それを踏まえて作者、寺山修司はどうしてこういう詩を書いたのか考える。

書いたのは寺山修司で、寺山修司の感性によって紡がれたのだから、その観点から考えるのが良いような気がするからだ。

 

寺山修司の感覚で言えば、「一生はすべてあべこべ」だ。

肖像画にまちがって髭を書いたから髭をはやし、門番をやとったから門をつくる。

普通は経過があって結果なのだが、結果があって経過になっている。

 

これは、「どうしてなのだろう?」と考え続けていた人だったのではないか?と感じた。

どうして世の中は、一生はこうなのだろう、と意味を考え続けたのではないだろうか?

放火されたのは半鐘が鳴るからで、血が出るのは包帯があるからだ、とその意味を考え続けたのだろう。

 

「どうしてだろう?」と考えているものだから、人よりも遅れてしまう。

小学校の頃から、一生の意味を考えていたのかもしれない。

そうして中年になって順応の考察や、ズボン吊りの上げ下げをするようになる。

 

その中で寺山修司の不条理は、かなしんでいるのにかなしい事が起きないことだった。

かなしい、それだけは確実に寺山修司の中にあるのに、「どうしてかなしいのか?」の意味がないのだ。

かなしい事が起きていないのにかなしんでいる。

 

数年間、かなしみつづけ、耳をすましているのにかなしみはやってこない。

昔はかなしんでいたら、かなしい事が起きていたのかもしれない。

中年になってもしかしたら鈍ってしまった感性に対しての焦りもあるかもしれない。

 

ありあまる人生で寺山修司は、観光案内図でかなしみを買える商会の番地をさがす。

今日も明日も、だ。

ここに詩人としての矜持を私は見る。

 

上っ面のかなしみでしかかなしめていないから、かなしい事が起きないのだろうか?

確かにかなしいとハッキリと分かるのに、かなしい事が起きないのだろうか?

かなしみの有無で意味が変わりそうだ。

 

件のツイートの返信リプに「タイトルが「生れた年」だから、かなしい事は生まれることで、生まれたからかなしいのでは?」が個人的にグッとくる解釈だ。

タイトルは見落としていた。

それなら確かにすでに結果として生まれているのだから、経過としてかなしいとなるのは自然だ。

 

かなしいとは、そもどういう意味だろうか?

かなしみの定義が最も重要で、最も意見が割れるところだろう。

何がかなしいのか、何でかなしいのか、果てのない想像をする。

 

他の人の解釈が気になる。

一先ず、ここら辺にしておこう。

 

寺山修司のある一遍の詩を考察してみた。