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祖母の十三回忌がある。

2022年2月、祖母の十三回忌がある。

祖母が亡くなって、12年が過ぎた。

12年、祖母が居ない日々が12年も過ぎた。


今年は姉も妹も帰省しない。

このご時世、仕方ない。

母と父と私の3人で法要する。

 

この12年、私はどれだけのことを覚えていられているだろうか?

この12年、私はどれだけのことを忘れてしまっただろうか?

涙も流せない自分の薄情さに胸糞悪くなる。

 

私にとって、祖母はどういう存在なのだろうか?

この世に実在したはずの肉体は小さな骨になって、 墓の下に眠っている。

「祖母」という形而上概念、 抽象的存在になっているような気がする。

 

私にとって「祖母」 は一般に悲しいという部類に分類される感情を想起させる装置なのかもしれない。

私の心の奥深くに根付き、「祖母」 を考えれば切々とした想いとなり、一滴の涙は出ないが、 目頭は熱くなり、そうした一連の流れに人間味を感じるための道具なのかもしれない 。

しかし、そうした客観視して装置として考える「祖母」の概念とは別に、どうしようもなく苦しくなって、「ごめん」と口走る私がいる。


何年も自分の奥底にあった空洞には何時の間にかヘドロのような汚れでしっかりと蓋をしているようであった。

それをごっそりとこそげ落とすと、胸が気持ち悪く感じて嘔吐き、吸った空気は新鮮な空気を私の空洞に流れ込んでいく。

そうしてまだ私には空洞があることを確認すると、安堵して、 そうして安堵している自分を軽蔑して、 空洞から沸き立って悲しみと、泣きたいのかどうなのか、「うう」 だの「ああ」だの呻きながら頭を左右に振って、微かに震える指を忙しなく動かして、ゆっくりと意識して、空洞から目を逸らす。


自分が人間らしいと感じるために「祖母」 を忘れたくなかったのか?

もうこの世に存在しない人間を自分のマスターベーションのために使用するために覚えていたいのか?

最悪過ぎて吐き気がするが、悲しいと思えることが嬉しくもある。


12年過ぎた、十二分に時間が過ぎた。

昔、本当に昔になった。

それでも私は今でも悲しい、悲しくて仕方ない。

 

祖母に会いたい、会って、話しがしたい。

未だに何も成せていないけど、笑ってあれこれ語りたい。

私の枕元に立ってくれる日を諦めていない。


今の私を形作った様々な出来事や関係の中で、祖母の影響は計り知れない。

今もはっきりと残る空洞が風化しないようにしたい。

もう声も匂いも私は感じられないけれど、「祖母」 を覚えていたい、私が朽ち果てるまで。

 


言語化できないこの感情は「愛」なのだろうか?

これが愛ならば、随分と身勝手で、重たく、迷惑な感情だ。

「エゴ」という名の方が世の辞書の記述と合致するから、「愛」ではないのかもしれない。


この執着は一体どこから来ているのだろうか?

最早、執念や情念ではないだろうか?

手放すつもりなど毛ほどもありはしないから、この感情を向けられている祖母はドン引いているかもしれない。


誰か覚えてくれているだろうか、祖母のことを。

誰か思い出してくれているだろうか、祖母のことを。

一人でも私の祖母を覚えてくれていたら、私はそれで良い。


私が突き動かす衝動は「楽しい」が主だ。

今を楽しむ、自分のセンスを信じる、私の衝動は基本は「楽しい」だ。

それとは明らかに別で、しかし確固たる強い衝動で書いている。


私にとって、書かざる得ない、書かなければならない、書くべき衝動だ。

人間が衝動で生きるのであれば、この「悲しい」が私の生きる根幹の一つだ。

祖母に生かされている、私の存在の形作っている。


2022年2月21日、祖母の十三回忌へ行く。

私のありったけの激情を持って、心静かに行く。

12年、色々と変わったが、何一つ変わらないと誓って。

 

ばあちゃん、愛しています、心から。

 

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