人と会話して、ふと私は「恥」に対してアンテナが弱い気がした。
自分自身を「愚かしい」とは口にするが自分自身を「恥ずかしい」とは感じていない。
『山月記』の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に共感していたが、よくよく考えると「愚かしさ」に共感しているのであって、「恥ずかしさ」は「愚かしさ」のオマケのような扱いだった。
日本は恥の文化である、「みっともない」と言われるようなことはしない。
歳相応の振る舞いを求められるし、「みっともない」ことに過敏だ。
私の理解はそれは「愚かしいこと」であって、「恥ずかしい」はそれに付随する現象だ。
「恥」とは一体何であろうか?
恥とは、なんらかの比較の基準にもとづく劣位の感情であり、またその劣位の観念でもある。
比較されるものは人の属性(地位,容姿など)、もしくはふるまい(機敏さ、勇気など)である。
比較基準が特定の社会集団において一様に支持されている場合、恥の感情あるいは観念はその集団の秩序を維持する機能をもつ。
たとえば、特定の状況において従うものとされている作法にかなって行動できない場合、その人の行動はこの作法の見地から劣っているとみなされ、周囲の人びとからの軽視や嘲笑(ちようしよう)を受ける。
恥とは「なんらかの比較の基準」があってそれと照らし合わした時に「恥ずかしい」と感じる感情、または「恥ずかしいこと」と認識している観念ということだ。
つまりくらべた時に劣位、優劣の差が生まれる訳か。
このくらべているのは今回で言えば私自身である。
比較対象はおおよそ2つで「人の属性」か「人のふるまい」とある。
「人の属性」は地位や容姿などその人の持っている属性である。
「人のふるまい」は機敏さ、勇気とTPOや状況による立ち振る舞いだ。
私の「愚かしい」というのは世間一般とくらべている。
世の中の人々とくらべて私は足りず、浅く、低い。
くらべた劣位の感情を私は内面に向けるため「愚かしい」となる。
上記記事は私が「普通」に成れないと悟った時のものだ。
人の属性、人のふるまいで私は劣位を感じている。
私にとって「普通」はとても恐ろしいもので、私の「愚かしさ」を否が応でもまざまざと見せつける。
「普通」とはくらべることだ。
常識やマナーと言った世の規範という基準がある。
それとくらべて私の何と無能なことか!
世の規範は時代によって変わる。
今は「普通」でも未来では「異端」になることは充分にある。
今でも息苦しいのに、その都度その都度周りの変化についていけるはずもない。
前述の通り、私は「愚かしい」と感じるのはくらべているから感じている。
「恥」の説明でもくらべることで「恥ずかしい」と感じるとある。
とすれば、他者の「恥ずかしい」と私は「愚かしい」は同根なのだろうか?
ここで「恥」の後半説明を読むと「特定の社会集団において一様に支持されている」と恥の感情、観念はその社会集団の秩序になる、とある。
さっぱり分からない。
特定の社会集団に適う基準というのは何であろうか?
私は劇団に所属している。
私が考える「特定の社会集団において一様に支持されている」ことと言えば、例えば「公演の関係者は稽古に参加する」くらいか?
しかし、この「稽古に参加する」も社会人なら仕事もあり必ずしも「恥」ではない。
そも「なんらかの比較の基準」が私の場合、私自身にある。
私が定めた理想なり普通とくらべて、私が劣っているから私は「愚かしい」のだ。
世間が定めた基準を頼りにする場合も、私の中で私を形作るかが基準だ。
私は主観主義だ。
正確なデータや世論もあるが、それはそれとして私の基準フィルターを採用している。
私は「間違える」という絶対の信頼から私自身を基準にしている。
故に「愚かしい」とは常々感じて辟易するが、「恥ずかしい」が霧散する。
「恥ずかしい」と言えるような相対的な基準がない。
世間に流されている凡人でもあるが、私が私を評価する時に「恥」は存在しない。
客観視して「愚かしい私」を「恥ずかしい」と評することはできる。
これが前述した「愚かしさのオマケ」の感覚だ。
思考して気付く、私の内面性だ。
愚かしい私はあるが、恥ずかしい私はない。
他者の「恥」について聞いてみたい。
「恥」を聞くのは相手のパーソナルスペースに踏み込む行為だろう。
誰か聞かせてくれないだろうか?
さしも私は愚かしく、恥知らずに道の端を歩く。