2019年5月31日、私にとっての節目を終えた。
私にとって、捨て置けない感情で、今も私の奥にある。
一区切りできないものを一区切りして、いつも通り過ごしている。
何をしたか、と言えば、オープンマイクで人前に立ち、20分以上の昔話をした。
誰かに聞いて欲しい話であり、私の心からの願いでもある。
聞いた人は大変に驚いていた、と普段の私から想像できないような、そんな話だ。
さて、当ブログでも、残しておく。
話した内容は、本文1に書いてある内容と大体同じである。
ただ、私の「荒れ狂った」感情の吐露なので、くれぐれも気を付けて頂きたい。
それから、追記として本文2を書いた。
本文1から時間経過しているが、私の気持ちではある。
併せて読んで貰えると、嬉しい。
最後に本文1で発表した感想を書いた。
前回はぼやかした部分をある程度の事実だ。
それから、私の一番の気持ちをぎゅっと言葉にしている。
体調が優れない方は、少し間を置くか、斜め読みをするなど対処を願う。
私の一部とも言えるし、私の全部かもしれない、私の気持ちだ。
できれば、多くの人に読んで欲しい、と私のエゴを書き残す。
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目次
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1、本文1。
(2011年4月)
2010年2月21日、父方の祖母が亡くなった。
数え年で83歳の人生だった。
祖母のためと言うより自分のために書く。
読まれている方はどうか最後までお付き合い頂ければと願う次第だ。
2010年2月某日の夜、私はいつもと同じように自分の部屋で寝ていた。
と、祖母の部屋から母の名前を呼ぶ祖母の声が聞こえてきた。
その頃の祖母は時々夜中にうわ言を言って不安がっていた。
母と父は二階で寝ていて、私は祖母と同じ一階で寝ており、部屋も近かったので必然して気付くのは私が最初だった。
私が祖母の部屋に行くと部屋は真っ暗で、祖母はその中でぼんやりと座っていた。
私は灯りを点けると祖母はハッとして私の顔を見た。
私が「どうしたの?」と聞くと、祖母は恐ろしいものを見たと訴えた。
祖母は金物でできた山の中に居て、青白く光るテレビのようなモノから顔の無い男が現れて私に近づいて来るんだ、と。
祖母は周りに居る人に助けを求めるけど、声をかけてもみんなスーッと居なくなってしまってもう怖くて仕方がなかった、と。
その時は私は幻覚のようなものを見ていると考えていたが、振り返るに、祖母は自分の死期が近いことを悟っていたのかもしれない。
祖母はその後に決まって母を呼んでくるように言い、自分が死んだ後のことを頼んでいた。
その時の母は、そんなことで起こさないで!と言わんばかりの態度で祖母に接していた。
毎度夜中に起こされて、行ってみれば自分が死んだ後の話では、確かに気が滅入るだろう。
だから、母が祖母に多少きつく当たってしまったのも分かる。
祖母も母に迷惑がかかっていることが分かっていたので、よく「迷惑をかけてすまないね」と言っていた。
そんな時の祖母の顔は、何とも言えない悲しい顔をしていた。
それでも母は決して祖母を嫌ってはいなかった。
母はずっと祖母を気遣っていた。
母は祖母が外に出て楽しんでもらおうと、健康体操に申し込みをしたことがあった。
然れど、祖母は知り合いがいないことと、みっともない姿で外に出たくないという生来のプライドの高さを理由にずっと部屋に篭ってばかりいた。
母は物を食べれなくなった祖母を病院に連れて行き、食べれないことでくよくよしている祖母を叱咤激励して食べさせたりしていた。
祖母はよく胃腸の不調を訴えて病院に通っていたが、病院の検査ではいつも何もなく、血液に至っては歳を考えるととても綺麗だ、と先生に誉められたほどであった。
先生には神経質になっているだけだと言われ、祖母は心配性なところがあったから、家族全員がそうなのだろうな、と認識していた。
祖母自身も頑張って食べようとしていたが、中々食は進まなかった。
私にはどうしたら良いのか分からないと、母は私に言った。
私ができたことと言えば、祖母に「大丈夫だよ」と言い、母に「よくやってんね」と言う、そんな言葉をかけることぐらいしかなかった。
祖母はうわ言を言う時に母か私の名前は呼ぶのだが、息子であるはずの父の名前は一度として呼んだことがなかった。
父は祖母と同じくプライドが高いこともあり、どちらかが話しかければ喧嘩になった。
だからなのか、父は祖母の部屋に近づこうとはしなかったし、会話もなかった。
父は祖母を母に任せきりにしていた。
そんな父に対して、祖母も意地になっていたのかもしれない。
ばあちゃん子な私としては、夜中に起こされようと別段何とも感じなかった。
時々うわ言を言う祖母だったが、それ以外はちゃんとしていた。
なので、少しばかりの心配はあったが、大体のことは気にも止めていなかった。
あの頃の私の祖母に対する態度は、少しぞんざいだった。
祖母が部屋で篭っている時でも、用事が無ければそれほど一緒にいなかったから。
着かず離れずの距離が最善だとも考えていた。
べったりとくっつくと身動きが取れないし、無関心だといざと言う時動けない。
その時分、そう考えていた。
2010年2月20日の朝、祖母は具合が悪そうだった。
最初はいつもの胃腸のことだと考えていたのだが、あまりに具合が悪そうなので、母はご近所に住んでいて祖母の数少ない話友達のGさんを呼んで来るように私にお願いした。
Gさんは駆けつけると手際良く祖母の相手をしてくれた。
私はポカリスエットを飲ませたり、濡れタオルを持って来たりと、周りをうろちょろとしていた。
その時、祖母は口からチョコレート色をした物を吐き出した。
祖母が口にしていた物の中にどう考えてもチョコレート系の物は無く、これはおかしいとなって、直ぐに母とGさんと一緒にH病院へ連れて行った。
H病院に着いても祖母の口からはチョコレート色した異物は吐き出され続けていた。
先生の応対で、チョコレート色した異物が血と胃の内容物が混ざった物であることが、そこで初めて分かった。
色で薄々察していたが、これは結構なことになってんな、と感じた。
大騒ぎの最中、仕事があった私はやることも無いので、早々にH病院を後にした。
昼頃になって母からメールが来た。
松本のA病院に搬送された、と。
Gさんは帰ってもらったことも書いてあった。
夕方頃に父から電話がかかってきた。
祖母が手術することになり緊急を要する、と。
祖母が死ぬかもしれない、と。
その時、私は遂に来るときが来たか、と覚悟した。
祖母のお迎えが来たのか、と。
家に帰ると父が帰宅して待っていた。
母に電話をして、必要な物を用意した。
母からのお願いで、Gさんにも来て頂くことになった。
それで、私と父とGさんは、そのまま松本に向かった。
A病院に着くと、母が出迎えてくれた。
その足で緊急病棟に向かった。
そこには全身に管で繋がれた祖母がいた。
口からはあのチョコレート色したの異物を吐き出していた。
祖母が「痛いよー痛いよー」と言っていた。
私は「ばあちゃん来たよ、俺の名前を呼んでよ」と言いながら、祖母の頭を撫でた。
祖母は「○○○ー、○○○ー(私の名前)」を呼んでくれた。
それが私が聞いた祖母の最後の言葉だった。
母と父は、先生の説明で書類にサインをしていた。
母は手が震えて、文字が上手く書けないでいた。
父はすっかり動揺して、うろうろしていた。
私は祖母の頭をずっと撫でていた。
それで、先生の話でとんでもないことが判明した。
祖母の大腸に穴が空いていて、そこから内容物が漏れて内蔵全体を汚している、と。
何でこんなに放っといたんだ、と言われるくらい危機的状況だったそうだ。
その穴は大分前から空いていたのではないか、と。
検査では何も異常がないと、胃腸も血液も健康だと、そう言われていたのに。
母はショックの受けたようであった。
そう言われて考えてみれば、食が細くなり始めたのも、5年前くらいからだったか?
その時からもう空いていたのだろうか?
祖母の手術の準備中に祖母の弟である伯父さんと親戚筋の人達がちらほらと集まってきた。
伯父さんが言うには、祖母の母も胃腸が原因でお亡くなりになったそうだ。
伯父さんは自分に言い聞かせるようにずっと喋っていた。
私は居ても何もできることがないので、終電に乗って家に帰り、就寝した。
朝、私はメールの着信音で目を覚ました。
その内容は、祖母が、もう。
私は仏壇に手を合わせて、祖父に行って来ますと言って、A病院に向かった。
A病院に着くと祖母は延命装置だろうか、機械に繋がれて呼吸をしていた。
時々、ピーと音が鳴って、心臓が止まっているようだった。
A病院に来れるだけの親戚筋の人、父に母、伯父さんと私で、祖母を見送ることになった。
2月21日9時45分、静かな朝だった。
その時、伯父さんが「姉さん!」と言って泣いたのが印象的だった。
いつもは明るく周りを盛り上げる人で、伯父さんでも泣くのだと、考えていた。
周りを見れば、皆、泣いていた。
母も、父も、その他の人も。
だけど、私は一向に泣けなかった。
何故なら、何も感じなかったから。
悲しくもなく、怒りも覚えず、ただ祖母が死んだと言う事実だけが私の中にあった。
周りが泣いているのが滑稽に感じたほどだ。
私はその時、人間として何所か欠落しているな、と強く感じた。
私は誰か大切な人が亡くなれば、劇的な変化が起きて自分が凄い人間に成れると考えていた。
しかしそれは錯覚であり、結局は、私は何一つ変わることなく、その場で立っているだけであった。
その後はバタバタと葬式の準備をした。
近所の子どもがいつものように遊ぼうと誘いにきたが、今はちょっと用事があるから無理だよ、と断った。
そこへ父が来て、「あっち行け!」とその子を怒鳴りつけた。
おいおい父よ、気持ちは分からんでもないが、何の事情も知らない子を怒鳴るのは如何なものか?なんて考えていた。
姉と妹が着いてからもバタバタしていた。
祖母の写真は、随分若いのを使って、着物やら梅の背景やらをパソコンで付け足していた。
私はこの写真を見て、「は?」と内心、憤った。
晩年の祖母は笑っていたか?
最近笑っていなかったからと、若い頃の写真に変えて。
見栄え悪いからと服を変えて。
こんなのは偽者だ!なんて考えていた。
弔辞を孫達で読むことになり、私は作文を書いた。
取りあえず、病院の経緯から祖母の思い出をつらつらと書けば良いだろう、なんて考えながら。
思い残すことがあるといけないから祖母の横に布団を敷いて一緒に寝たり、ビデオに祖
母を撮ったり、と自分がやりたいことをしていたら、父に「ありがとな」と言われた。
いや、ただやりたいことをやっているだけなんだけど?と考えたが、説明して不謹慎な奴より良い息子の方が良いので、あえて言わなかった。
お通夜の時に母が泣き崩れた時、私が「母さん大丈夫?落ち着いて」と言ったら、妹が泣きながら「お前こそ落ち着けよっ!」と切れられた。
ええ?何で怒鳴られたの?あーでも妹も突然のことでパニックになっているんだな、なんて考えながら。
葬式の時に、弔辞を姉、私、妹の順で言ったのだが、姉も妹も泣きながら彼女たちが今感じていることを言っていた。
私はと言えば、自作した作文をつっかえつっかえ読んで、恥ずかしいなあ少し練習すれば良かった、と後悔していた。
火葬場では女の人がもの凄い低音で朗々と話すのを見て、RPGに出てくる勇者に「お覚悟はおありですか?」と問いかけるキャラクターを連想して、吹き出しそうになった。
場の空気で笑っている場面ではないので、必死に笑いを堪えた。
火葬をしている間は、携帯電話のアプリゲームで遊んで時間を潰した。
骨になった祖母を骨壺に入れていくのだが、思いの外熱くて、これは結構大変だなと四苦八苦しながら骨を掴んでいた。
全てが終わって、やはり私は泣かなかった。
祖母に対して何も思い残すことなどなかったから。
そして、何も感じなかったから。
姉や妹が何故そんなに泣くのかが分からなかった。
彼女らは自分の夢を追いかけて長野を飛び出た。
なのに弔辞では「良い孫じゃなくてゴメンね」と言っていた。
意味が分からない、どう考えても謝ることなどないのに。
謝るくらいなら最初から家を出るなよ、自分を否定するようなことを祖母に言って楽しいか?
父が何故そんなに泣くのか分からなかった。
父は最後まで母に任せきりだった。
家長として家にお金はしっかり入れていたが、祖母に優しかったとは到底言えない。
なのに、何故そんなに震えて話す?
理解ができない、そんなに泣くほどの情があったのならもっと優しい言葉をかければ良かったのに。
祖父を早くに亡くし、長い時間を母と子で過ごして来たのに。
母が何故そんなに泣いているのかが分からなかった。
誰よりも苦労したのは母だった。
晩年の祖母と誰よりも長く一緒に居たのは母だ。
だからこそ、分からない。
私は何も思い残すことが無いのに、私よりもずっと一緒に居た母にはまだ思い残すことがあるのだろうか?
葬式に来てくれた方々が泣いているのが分からなかった。
あなた達は何でそんなに悲しいのか?
はっきり言って、赤の他人のあなた達が。
泣くくらいならもっと会いに来て欲しかった。そしたら葬式が最期なんてならずに済むのに。
周りは自然に泣ける。
私は一粒の涙も流すどころか、笑う余裕さえある。
祖母のために流す涙を見る度に、私が人間として何か欠落していることを思い知らされるばかりだった。
そして、その欠落している事実だけが、私の中にあった。
時間は流れて、2010年3月。
仕事で外に子どもらを迎えに何名かで外に行った時、桜の話題になった。
その時、私は祖母と一度だけ行った花見のこと思い出した。
瞬間、胸に波のようなものが込み上げてきた。
不意に訪れたそれに私は驚きながらもゆっくりと呼吸をして自分を落ち着かせた。
以前読んだライトノベルに、泣くとその涙に乗って亡くなった人のことを忘れてしまう、とあったことを頭の中で反芻した。
そして、私は泣きたくないな、と考えた。
泣いたら、祖母を全部忘れてしまうかもしれなかったから。
偽者の写真の祖母ではない。
母が苦労したこと。
祖母の心配性にうんざりしたこと。
祖母があんまり笑わなかったこと。
それでも散歩がてら二人で桜を見に行くと、ちょっとはにかんだ顔をしたこと。
私を可愛がってくれたこと。
祖父との馴れ初めや結婚式の豪勢な行脚の話のこと。
戦争が起きて、祖父が戦場に行って、生きて戻って来たこと。
癌で祖父が亡くなり、父は事故で片足が無くし、心中しようとした話のこと。
祖母に切ってもらった髪は、おかっぱだったこと。
祖母が私が描いた祖父の絵を仏壇の上に飾ってくれたこと。
祖母が久方ぶりに松本に行った時、とてもはしゃいでいたこと。
小学生の時の祖母はむしろ社交的で、どんどん人に絡んでいったこと。
中学になって髪は床屋で、布団は別になって祖母と離れていったこと。
それから。
私は可能な限り全部を忘れたくないなと、そう考えた。
漫画で人が死ぬのは、人に忘れ去られた時だと言うのも思い出した。
このまま祖母が居なくなるのは嫌だ。
祖母は居た、この家に居た。
誰かに覚えて欲しかった。
誰でも良いから、祖母のことを覚えて欲しかった。
書いたのは祖母を忘れないため、祖母を誰かの記憶の片隅でも祖母が居たことを知って欲しいため。
今、誰よりも思い残したことがあるのは私だ。
本当に私は祖母のことを愛していた。
だから、忘れたくない。
祖母と言う人間がいたことを忘れたくない。
私は有り得ないことを願っているのだ、死なないで欲しかったと。
今も波のような感情が押し寄せて、泣けよ泣けよと囁く。
一呼吸して気持ちを落ち着かせる。
私は元気だ、私の心配はしなくても大丈夫だ。
ここまで読んで頂いた奇特な方、お疲れさまでした。
長々と同じようなことばかり書いて、申し訳ありません。
最後まで読んで頂き、心からありがとうございます。
皆様方に幸運がありますように。
2、本文2。
(2016年2月)
父方の祖母が亡くなって6年、七回忌を迎えた。
1周年に書き連ねたが、覚えている方はいるだろうか?
(本文1の内容はmixiに書き残していた。)
1月に母から「来月の13日は空けといて」と言われた時は何のことだろう、と考えたが、その日は法要だった。
休日の希望を申請できる期日を過ぎていたので、どうなるものかと戦々恐々としていたが、偶々その日は休みとなった。
2月13日、久々に家族が揃った。
姉は石川県から、妹はさいたま県から長野県に帰省して来た。
姉妹がお互いに会うのが、6年振りとのことだ。
私とはそれぞれ半年に一回は会うので、私に対しては特に感想もないだろうが、6年振りともなれば感慨も一入かもしれない。
次回揃うのは次の法要ぐらいだろう、ということで家族写真を撮ることになった。
そもそも、家族写真を撮るのは今回が初めてだった。
単体で、若しくは両親と一緒に、と個別にはあったが、家族全員での写真はなかった。
次に会うのは何時になるか分からないからこそ、1枚に残した。
父の車に乗って、お寺に行った。
お経を唱える前に最初に前置きとして、住職さんが話をして下さった。
その時の話で、「未だに忘れられない。私が家に尋ねたとき、「前の住職から(今の住職さんに)引き継ぎが上手くいかなくて2、3年お参りが出来なかった。そういうことがないようにしてほしい」と涙ながらに言われた」という話をされた。
ああ、祖母の話だ、と嬉しくなった。
帰りの車中では、姉が祖母と近くのレストランに行った話をした。
肉が好きで「もう食えない」と言いながら結構食べていたことを姉はさらりと話した。
多くの人に覚えて欲しい、と私の願いは一つにこういう形で残って、本当に良かった。
住職さんや姉が祖母の話をすることが、本当に嬉しかった、泣きたくなるくらいに。
6年、あっという間だった。
この6年、私事であるが、色々とあった。
最も近しい友人であったO氏と決別したり、ブラジル行ったり、パソコン組み立てたり。
そのO氏と再会したり、神奈川行ったり、群馬行ったり。
結句長野に戻って、自動車免許と取って、今の仕事に就いて。
今年で言えば一軒家のレントが決まって。
嬉しいこともあったし、楽しいこともあった。
けれど、けれども、やはり悲しい。
他の家族の胸の内は知りようがないが、私は未だに悲しい。
普段は思い出すこともなく、自分のことで一杯一杯で、毎日をいつも通りに過ごしている。
本当に孝行していない孫であった。
偶に祖母のことが思い出すと、「ああ、会いたいな」と考えてしまい、途方も無く悲しくなる。
どうして、こんなにも会いたいのでだろうか?
会って、何か変わる訳ではないのに。
祖母に会ったら、話がしたい。
しかし、何を話せば良いのだろうか?
今のままじゃ会えない。
でも、会って、とにかく話がしたい。
今、祖母に言う言葉を考えてみたが、上手く言葉にならない。
駄目な私は、いつも気持ちが先走り過ぎてしまう。
家族とは何だろうか?
父と母、姉と妹、そして私。
母は言った、「今日はばあちゃんに会わせてもらった」と。
私は家族愛の薄い人間である、父に対しては悪感情が根強い。
ただ祖母と言う繋がりが、7回忌の法要に繋がったのであれば、私が胸深く抱いているモノを、家族それぞれが違った形で抱いている証左ではないか?
そう考えると不思議だ、家族とは何だろうか?
13回忌の法要でも、私はきっと悲しいままだろう。
そのことが良いことなのか悪いことなのか、私には分からない。
それでも、次の法要で家族はまた揃うはずだ。
祖母のお陰、これも私の願う祖母の存在した証の一つだろう。
祖母の存在の証を確かに一つづつ。
途絶えないように忘れないように。
何時か、何処かにいる祖母と会えるまで。
長文失礼する。
皆様の大切なモノが守られますように。
3、日を明けて、変わらずに願うこと。
本文1で話した内容の終盤に、「死なないで欲しかった」とある。
練習では、この部分でどうにも込み上げてしまっていたので、この部分だけを気を付けよう、と考えていた。
しかし、本番は、全然駄目、感情の起伏が激しくて、どうにもならなかった。
ゲストとして登壇する前に、スーツに着替えた。
おちゃらけて話すつもりは毛頭になかった。
緊張で喉が張り付いた感覚がした。
主催者さんに紹介されて、マイクに立った。
いつもは和やかに話し始めるのだが、ぼそぼそと話してしまった。
出だしでいきなり躓いたが、直ぐに立て直した、と考えた。
まず、話している最中に人前で泣いた。
ぼろぼろと泣いた、32歳の男が。
登壇前までは笑っていたりもしていたから、あまりの急変に驚かれただろう。
それから、堪え切れずに声を荒げてしまった。
普段は大きい声を出すことはあるが、声を荒げることはない。
込み上げてきた感情のままに、叫んでいた。
練習では、何処か、借り物の言葉で話しているようで、自分の言葉じゃないな、と感じていた。
本番は、自分の言葉という観点で言えば、真に迫っているだろう。
ただ、人に話すのに自身を見失っているようで、ちょっと頂けない気がする。
周りを見て心配させてしまった、と感じたので、最後の「私の心配はしなくても大丈夫だ」の部分はにっこり笑って、大丈夫アピールをした。
ちゃんと伝わったかは分からないが、アピールは必要だろう。
ただ、その時でも私の感情は燻っているようであった。
話終わって、ステージから捌けて、控え室で入っても、しばらく泣いた。
時間にして3分ほどだろうか、踞って泣いた。
これほど泣いたのは、何年振りだろうか?
外ではもう別の演者さんが発表していた。
ゆっくりと着替えて、漏れ聞こえる音が途切れるのを待った。
良い感じに向こうが終わったのか、拍手が聞こえたので、客席に戻った。
そそくさと席に戻って、一番後ろの席に座った。
妙に浮ついた気分で他の人のを観劇した。
その中に、薔薇の花を買った、という人がいて、「どなたかにこの薔薇を差し上げます」と言った。
周りを見渡して、誰も手を挙げなかったので、私は手を上げた。
一本の茎に5輪の黄色い花を咲かせた、カタリナという名の薔薇を腕の中に抱えた。
イベントが終わって、何人かに感想を聞けた。
私が登壇する前は明るく話しかけていた知人が、登壇後から一切話しかけずに帰ったことに少なからず気になった。
やはり、人様に話すのには、荷が大きかっただろうか?
感想の1つ、Aさん「家族のことを語ろうとすれば、ああなっちゃうものだろう」。
Aさんは表現として体裁を整えて挑むタイプの人だが、家族を題材にしたら、荒れるものらしい。
そうは言っても、もう少しどうにかならないものか、と私が頭を掻いていたが「良かったよ」と言って肩を叩いてくれた。
感想の2つ、Bさん「突然、号泣したから驚いた。途中、「演技でした」と大どんでん返しがあるか、とか考えた」。
来てくれた方の表情から驚きは感じ取っていたが、やはり、驚かせてしまったようだ。
演技であれだけ泣ければ、私は俳優として食っていけると内心考えた。
いつもなら、一人で帰るのだが、その日は友人を送らなければならなかった。
さらさらと聞き、適当な話をして、気付いたら寝ていた。
ゆっくりと反芻する時間はなかった。
翌朝、目の奥がじんじんと熱かった。
胸の奥で昨日の熱がまだ燻っていた。
現在、収まっているが、私の想像以上に私は悲しかったのか、と9年目にして尚驚く。
薔薇は色と本数で意味が変わる。
黄は「献身」。
5本は「あなたに出会えたことの心からの喜び」。
この薔薇は、今日、私がやったことだ。
私の願いを形にした、この薔薇だ。
揺らぐ私を留めた、この薔薇を胸の内に抱える。
年号が変わった。
私は歳を重ねた。
それでも、願わずにはいられない。
死なないで欲しかった。
祖母に会いたい。
可能な限り、すべての人に知って欲しい、覚えて欲しい。
エゴだ、紛うことなきエゴだ。
私の願いは自分勝手で、相手のことを考慮していない。
しかし、私の心からの願いは、そうしたエゴなのだ。
心の片隅にでも私の願いをそっと記憶して欲しい。
普段は全く忘れていても構わない。
ほんの一瞬、刹那にも満たない時間、「こんな願いがあったな」と思い出してくれるだけで良い。
私は願う、願わずにはいられない。
どうか、記憶してください。
私は、祖母を愛している、これからもずっと。
ここまで読んで頂き、本当に、本当にありがとうございます。
皆様方の心に平穏が訪れることを切に願う。
2019年5月31日、私にとっての節目を終えた。
私にとって、捨て置けない感情で、今も私の奥にある。
一区切りできないものを一区切りして、いつも通り過ごす。