ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

20年分の発酵した得体の知れない感情を一欠片でも残して世界が滅ぶのを防ぎたい。

愛を取っ掛かりに考えた。

 

2022年、つまり来年から超個人的実験企画をやる。

1ヶ月毎に1本、1年通して12本の一人芝居をする。
やる理由は「何だかやりたいから!」という勢いだけで、明確な理由は存在しない。

一人芝居だから稽古は一人で黙々とすれば良いのが利点だ。
新型コロナウィルスでの感染リスクがかなり低い、人と会わないのだから移すことがない。

ただただ衝動に駆られて走り出す、相変わらず馬鹿である。

 

一連の一人芝居の企画名はないが、何か適当にタイトルを決めたい。

「明日は明日のどこ吹く風(仮)」とかにしてみようか?

他に良い企画名が出るかもしれないから、仮指定にしておこう。

 

さて、この一連の一人芝居には共通テーマが一応ある。

その共通テーマは「愛」である。

理由は「友人に提案されたのをそのまま乗っかった」という脳のプラントの電源コード引っこ抜いたもので、明示された理由は存在しない。

 

漠然と「愛」をテーマに据えたが、ちょっと漠然とし過ぎたかもしれない。

12本、手を替え品を替えて「愛」のテーマにした一人芝居をするのだから、きちんと詰めないといけない。

ここから先は、私の考える最強の「愛」だ、異論は認める。

 

 

「愛」と一言で言っても色々とある。

恋愛に始まり、友愛、博愛、家族愛、地域愛、自己愛などだ。

幅広いから自由度が高いが、共通テーマとなるともう一つ定義しておかないと取っ散らかる。

 

広く多くに見せたいなら、恋愛に絞った方が無難なのかもしれない。

しかし残念だが、私は恋愛に全く疎い。

中学の時分、クラスメートの女子に「恋って何?」と真顔で聞き、それから20年分の発酵したものが、私だ。

 

20年分の発酵、沈没船から発見されたワインのような味わいに違いない。

しかし、ブランデー好きの天使も飲むのを遠慮するだろう。

発酵したのはアルコールではなくて、私の拗らせた情感で、バーテンダーもお手上げする代物だ。

 

私の知っている「愛」は亡き祖母への愛だ。

喪失して知った愛が、現在の私と地続きである。

一人芝居を打とうとしているのは私なのだから、私の愛もこれに準拠すべきだろう。

 

「愛」を他の言葉に言い換えるならば、何であるか?

私にとっての「愛」は「得体の知れない感情」である。

好きだとか、気持ちが良いとか、そんな単純なものではない。

 

楽しかった、嬉しかった、悲しかった、腹が立った、苦しかった、もっと一緒に居たかった、これ以上はなかった。

説明すれば逃げていく、形容し難い、だが確実に私の腹の底や心臓の真芯にあるもの、それが私にとっての「愛」だ。

得体の知れない感情で、それを説明しようとすれば、現状最も適した言葉が「愛」なのだ。

 

「愛」は肯定的な意味合いで発言される。

では、なぜ肯定的に愛を言うのだろうか?

否定的、喪失の観点から考えれば、この「得体の知れない感情」はそれを抱いている私から切り離せないのだ。

 

私という人間形成に組み込まれていて、私の愛を否定するのは私という人間の存在の否定だ。

私という人間から観測している世界の一部であり、私の愛の否定はこの世界全ての否定だ。

世界を支えるゾウの1体がカメの背から転げ落ちるが如くだ。

 

得体の知れない感情は、良い感情だけではなく、嫌な感情も含まれる。

しかし、私から切り離せない、うまく処理できない、手が出せない、枠にどうしてもはみ出る。

だから肯定するしかないのだ、そうしなければ世界が滅びる。

 

正確性を求めるなら、「愛」と呼称するのも憚れるだろう。

本来、「得体の知れない感情」は言葉にできない代物だ。

尤もらしく「愛」と定義しているが、言葉では足りない。

 

しかし、私は言葉にしたがる。

「得たいの知れない感情」に言葉を与えれば、何かが削ぎ落され、真実別物になる。

ただ思考するために便宜上定義された「得体の知れない感情」は、その瞬間でしか感じ得ないものであり、言葉として残るのは形骸化した記憶で、それを分かるのはその瞬間に「得体の知れない感情」を抱いた私しかおらず、今の私でさえ、「得体の知れない感情」は何であったのか口をつぐんでしまう。

 

それでも尚言葉にしたいのは、「得体の知れない感情」を残したいからだ。

例え、元の形から遠くなっても、間違っていたとしても、誰でも良い、誰でも良いから私のこの「得体の知れない感情」を記憶してもらいたい。

例え、それが最早言葉でしかない「愛」であったとしても、一欠片でも残ればそれで良い。

 

「得体の知れない感情」はそのまま私なのだ。

何を演じようと、何をしようと私は「私」のままだ。

得たいの知れないままに私がいれば、それが「愛」になる。

 

一欠片の愛のために私は突き動かされている。

私の知っている「愛」はこれ以下はなく、これ以上もない。

伊達に20年発酵していない、一口で悪酔い必定だ。

 

一人芝居の共通テーマの「愛」の方向性の定義はこれで良いか。

つまり、まとめると、どうなるのだろうか?

いいや、えいやっとまとめてしまえ。

 

20年分の発酵した得体の知れない感情を一欠片でも残して世界が滅ぶのを防ぎたい。

 

良い結論な気がする。

これで来年は一先ず戦える。

2022年、私は私のままに、今を楽しむ。

 

おっと、そこいく天使よ、どうだい一杯、飲んでいきな?