お題「これまで生きてきて「死ぬかと思った」瞬間はありますか?身体的なものでも精神的なものでも」
はて、36年間生きてきて、「死ぬかと思った」と感じた瞬間などあっただろうか?
程度で言えば、九死に一生を得るくらいの死と生の境ぐらいか。
いっそ死の淵を超えたと感じるくらいにはギリギリのラインじゃないと駄目だろうか?
お題をしばし眺めて記憶の底から引っ張り出したのが下記の記事だ。
書いたのは2016年10月、7年前になる。
どら、何を書いたかざっと読んでみるか。
当時は友達というものが「居なかった」と定義する面倒な奴だった。
今も面倒なのは変わらないが、当時は今より尖っていた。
その私はぼっち故に一つの真理もどきを説く。
(中略)
ぼっちで楽しむ方法を自然と身に付きました。
気持ちの赴くままに。何かのアクシデントをスパイスに。
嫌なことは嫌なことで楽しみ。時に逃げ。
好きなことは好きなことで楽しみ。偶に諦め。
そうして三十路手前まで楽しみ尽くしてきました。
嫌なことを嫌なことで楽しみ、が解らない?でしょうね!
えっと、例を出しましょか?
私は私が嫌いですけど、私は私が嫌いな私が好きだったりもします。
とか嫌いな私が好きとか言う脳みその逝かれ具合が嫌いだったりするんですけど。
まあ、いたちごっこですね。このいたちごっこをし始めると脳が痛み始めます。
もう、ズッキンズッキンですね。そうすると「おおお、考え過ぎて死にそうだ!やべえ、楽しい!」になります。
さくっと書いてるが、「考え過ぎて頭が割れそうな体験」が私の死に際の体験になるかと。
精神の死、なのかもしれない。
精神の死の淵の割には笑っているので存外まだ余裕だったかもしれないが、当時は死ぬと感じたのだから嘘ではない。
孤独とは「自分の存在が認められない」ことだと考えます。
人との繋がりで「自分の存在が認められている」人はそれはそれで幸せですし、健全な社会でしょう。
しかし、「自分の存在を認められない」人は人との繋がりが却って気付いてしまうものです。
私は自身が無能なので社会的に「自分の存在を認められない」んですけど。
私は空気も読めないので遊ぶ人たちの中で「自分の存在を認めてられない」でしょうけど。
私はそれで良いと。「私の存在を認められない」ことに存在意義を見出してます。
ああ、死にたいなと考える私が、それでもそう考えるのは私が存在するからで。
私が存在することに何かしらの意図はきっとないでしょうけど。
私が存在の意味の無さは、それはそれでいいや、と諦めると楽しくなります。
何故なら…私の存在の無さが周りの存在の意味があることに気付けるから、かなー?多分。
そういえば、最近は「死にたい」と呟かなくなった気がする。
いや、呟いてはいるが、頻度が減ったような気がする。
相変わらず孤独を愛せるが、当時のぼっちの中の孤独ではない。
明確な変化を文章から読み取れる。
私は私の存在意義を私自身に求めないが、同時に社会や人との繋がりの中の存在としての在り方は有る、と言って良いだろう。
無能であることと存在の認証は別なのだ。
深く淀んだ7年前より健全になっているのだろうか?
あの当時の死にたい私は、今の私を疎ましく感じるだろうか。
過去の死にたがりは未だ燻っている程度には私の心の一部だ。
一先ず、お題から逸れ過ぎてしまうから、この辺で区切る。