恐怖症、という医学の見地から見るに私は恐怖症ではない。
それによって不安になったり、強迫観念に晒されたりしない。
私の場合はとてもライトな、私が勝手に恐れているぐらいの意味で活用する。
私は普通恐怖症だ。
世の中の常識、普通が怖い。
何が普通なのか、正しいのか分からない。
恐怖は「未知」だから怖い。
自分の想像の外に何があるか分からないのは本能的に恐怖するらしい。
逆にすべて「既知」になれば恐怖の対象ではなくなる。
この「普通」の「未知」は周りを見て判別するしかないのだが、その時々、相手との関係、空気感で常識は変わる。
いつでも初めてな場面で大体の普通を用いてやり過ごす。
しかし、何かの拍子に間違える、私は怖くて仕方ない。
時代によって流動する「普通」に私は適応できている気がしない。
気付けば立派なオジサンなのに、中身は幼い子どものままだ。
白線の上を歩き、白線を踏み外したら地獄行きゲームを真に受けてやるガキンチョな私だ。
私が決定的に「普通」に成れないことに絶望したのが上記の記事だ。
その中で私は以下の嘆いている。
私は考える。
私はネガティブであるが、生きづらい人々とは共感し、分かち合えない。
かと言って、人生に謳歌する人々とも、挑戦する人々とも、相容れない。
私は考える。
私は誰とも噛み合わない。
そして、そのことが「辛い」とは感じない。
思わず、無料のパーキングエリアに自動車を止めた。
自動車から下りて、あの信号まで歩こう、と歩き始めた。
私は考える。
私は「普通」になりたい。
世の中の真っ当な「普通」になりたい。
そして、「普通」に生きたい。
しかし、「普通」に生きるには、人と関わらなければならない。
誰とも噛み合わないのに、誰かと関わらなければならない。
「普通」に生きることの何と難しいことか。
それでも、私は心の何処かで誰かと噛み合うことがあるかもしれない、と考えていたのかもしれない。
「普通」に生きようと考えていたその根底に、誰かと噛み合う未来を想定していたのかもしれない。
しかし、それは、誰かの悪夢だろう。
私にとって普通はとても難解で、いつまでも未知で恐ろしいものだ。
私は普通が怖い、普通に生きたいが「普通」に生きれない。
病気ではなく、私が私の鈍感さを書いているだけなので恐怖症に苦しむ人には浅い絶望だろう。
されど私は怖い、普通が怖い。
ただ、ひっそりと生きたいだけなのに、普通とは恐ろしい。
聞き流してもらって構わない、詰まらない男の詰まらない独り言に過ぎないのだから。
今日も世間様に目を背け耳を塞いで道の端をゆっくり歩く。