ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

誰かを傷付けながら今日も生きてゆく。

傷付くことを取っ掛かりに考えた。

 

自分を含めた誰かを傷付けないで生きるのはできない。

最近、そうした結論に至った。

地域限定のフラペチーノを一気にすすって、アイスクリーム頭痛を起こす。

 

私の主観による見解なので、偏りはあるだろう。

それでも、現時点で私の中で確からしいと感じる。

空調の効いた部屋は、半袖の私には少し肌寒い。

 

頭の中でごちゃごちゃと考えたので、まとまり切れていない部分もある。

備忘録がてら「傷付け論」を展開してみよう。

マスクを着けて、さて、本腰を入れる。

 

 

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目次

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1、そんな大したことではないけれど。

 

何かを言えば、誰かが傷付く。

何かをすれば、誰かが傷付く。

私自身の行動に伴う因果を煩わしく感じる。

 

ブログで書いた私の思想が原因で仕事を辞めざる得なくなった。

Facebookで大金を使い果たした話はガチトーンで叱られた。

私はただ笑ってもらえるものばかりだと、なのに、不愉快にさせてしまった。

 

www.negativehoukou.jp

(上記リンクは、大金を使い果たした話をしたことを書いた記事だ) 

 

後日、この話を別の方に言ってみれば、そんな大した事ではない、と仰って頂いた。

本当に「そんな大した事ではない」のだろう、私のしでかした出来事は。

ただ、その「そんな大した事ではない」ことで傷付く人も少なからずいるのだ。

 

傷付く人間は、私も含まれている。

こうしてうじうじとしている内面を鑑みるに、傷付いているのだ。

しかし、向こうが明確に私を傷付けようとして言うばかりではなく、むしろ私を慮って言う場合も多々ある。

 

傷付ける意図がないのに、傷付く。

優しさを持って接するのに、傷付く。

兎角、人の世は住み難いとは夏目漱石の「夏枕」で嘆かれて久しい。

 

果たして、他者を傷付けずに済むにはどうすれば良いのだろうか?

うんうんと唸って30余年、冒頭の結論に至った訳だ。

その結論の始め、「自殺する」と発言した場合から展開していく。

 

2、「死にたい」という存在の鋭利さ。

 

SNSのタイムラインに不特定多数に向けて、「死んだ方がマシだ」と書く。

そうすると「死なないで」、「悲しむ人がいる」、と不特定多数が反応する。

少なからず、この発言によって傷付いた人がいる訳だ。

 

「死にたい」と零すのは私はそういう気持ちになることもあるだろう、と受け止めている。

故に自殺してもその人がそう決めたのであれば、そういうことなのだと傷付きながらも飲み込む。

死なないでくれ、とはその人のその後の人生を請け負えないと考えるから、私には無責任な言葉に感じる。

 

誰かがこの世界から存在しなくなる宣言をしたら、その事実に傷付く。

私も新聞でタレントが自殺したと端の方に書かれていたのを見付けた時は驚き、そして傷付いたのかもしれない。

向こうは私のことなど知らないのに、顔だけ知っている私が勝手に傷付いているのだ。

 

どこを探しても自殺して死んでしまった人はこの世界に存在しなくなる。

その事実に胸を痛めてしまうのを優しい人と言えるかもしれない。

「死にたい」と発言する人は、発言した時点で人を傷付けている。

 

しかし、「死にたい」と発言する人が居なくなれば、傷付く人がいなくなる。

存在するから傷付く、そこにいるから傷付く、とも言える。

この世の中から「死にたい」と言う人が居なくならないと、傷付く人は居なくならない。

 

SNSを眺めていれば、悪辣な発言をする人がいて、そういう人間に対して、存在自体を否定する人がいる。

目に入るだけで気が滅入る、自分とは相容れない存在によって傷付けられる。

相容れない相手は当然、その人の理屈で動いていて、傷付ける意図は恐らくないだろう。

 

3、人間が人間としてこの世界に存在していく限り。

 

この世界に存在しなくなれば、傷付く。

この世界に存在しても、傷付く。

いてもいなくても、傷付く人はいる。

 

これは認識の問題なのかもしれない。

しかし、「認識の問題」と定義した時点で、その問題が存在してしまう。

この定義が出てきてしまったが故に、傷付く人は世界のどこかにいる。

 

哲学者がやたら世を儚んでいるのは、様々な事柄を定義して、様々な事柄を認識できる存在にしたからではなかろうか?

存在するから傷付く、世界を厳密に定義し続ければ、その分、傷が増えるのは道理のように感じる。

無知であること、鈍感であることは、傷付かないためには必要だろう。

 

人が傷付くのは、自分の思想や価値観と相容れない、受け止められないことがあるからだ。

自分とは相容れない人間がいるのは、人間の生存戦略だからではなかろうか。

種を残す、拡大するのに社会構造が人間には必要だった。

 

人間社会を構築する上で同一の人間だけでは自然淘汰されてしまう。

だから、マイノリティを含めて人間が多様化していくのは当然の帰結だったのだろう。

そして、人間社会を営むことが即ち人間の生存戦略なので、生きていこうとすれば、自ずと人と関わっていくのだ。

 

厳密に言えば、同一な人間も存在はしない。

大まかなパターン化された性格や価値観に当て嵌めれば同一な分類はいる。

しかし、その中身をつぶさに精査していけば、ニュアンスの違いは確実にある。

過ごした環境も時代も血縁も何もかも同一な存在はいない。

クローンでさえ、ニュアンスの違いが生まれるに違いないのだ。

 

人間社会から逸脱した生活をすれば、傷付かないのだろうか?

例えば、無人島で一人で生きる、誰とも関わらないで生きようとしても、孤独な時間は心を蝕むような気がする。

そも、無人島で一人で生きようとするまでに誰かと関わってきたはずなのだ。

 

少なくとも家族はいただろうし、友達もいたかもしれない。

人間社会にいる生活から世捨て人になるまでの過程がある。

傷付いたから一人で生きようとするのか、無人島に来て傷付くのか。

 

この世に生まれ落ちている時点で、自分とは相容れない人間とも関わる可能性は排除できない。

思考していけば、物事を定義していく、言葉に換えてしまう。

人間が人間としてこの世界に存在していく限り、その存在自体で傷付く。

 

つまり、人間という種である以上、傷付くことからは逃れられないのだ。

 

4、傷付くからこそ。

 

無知でいよう、とするのは難しい。

例えば無知で何かをしていれば、誰かが親切心でアドバイスをして、無知であることを認識してしまう。

認識してしまえば、傷付く。

知的探究心が全くなくても、生きていこうとすれば人と関わり、その関わり分の知が定義されていく。

無知のままでいるのは難しい。

 

鈍感でいよう、とするのもしっくり来ない。

傷付かないためには鈍感になるべき時は必要だが、人間全てが鈍感、即ち同一化は自然淘汰の原理が働くだろう。

加えて、鈍感に振る舞うということは、傷付ける人に気付かないということでもある。

 

だから、私は諦める。

もうどう足掻いてもこの世界に存在してしまっている私は、誰かを傷付け、傷付けられるのだ。

手放す、力を抜く、視野を広く持つ、諦念は生きる上で必要な技術だと確信している。

 

同時に、傷付くことも必要なのかもしれない。

筋肉が増大するのは、筋繊維が傷付き、その補修されるためだ。

心が傷付けば、その傷の癒える過程で人は強くなれるのかもしれない。

 

私は傷付くことを捨て去りたくない気持ちもある。

亡き祖母への愛は、今でも私を傷付け悲しませるが、この悲しみがあるから私は祖母を忘れずにいられる。

傷があるから覚え続けられるのは、私にとって救いでもある。

 

同じ過ちを繰り返さないために傷は必要だ。

胸の奥が痛むから、その分、人に優しくにもなれる。

傷付く事自体は決して悪いことではない。

 

しかし、傷付くことを望んでいくのは不健全だろう。

傷付かなくて済むなら、そうして生きていければどんなに楽だろうか。

自傷行為をすることで他者がまた傷付くのは上記に示した通りだ。

 

5、生きるために必要な技術。 

 

傷付き過ぎれば、心が壊れる。

鈍感になれば、敵を増やす。

喋っても黙っても、傷付けてしまう。

 

気付いた分だけ傷付いてしまう、ままならないこの世界だ。 

誰かを傷付けずには生きられないから、自分の正しいと感じる、考えることを選択するしかない。

気付けることには気付いていきたい、と私は考える。

 

私がそれで何か傷付いても、仕方ない。

私がそれで誰かを傷付けてたとしても、それも仕方ない。

気付いてしまったなら後戻りはできないのだから、悩み藻掻きながら自分の正しいと信じる選択をしていくしかない。

傷付く勇気と、傷付ける覚悟と、多少の鈍感と無知と諦めが現在の私の生きるために必要な技術だと考える。

 

誰かを傷付けずに生きられない、まずその事実から受け止める。

そして、数ある選択肢をしっかりと選ぶ。

どれを選んでも傷付けるし、どれも選ばなくても傷付けるのだから、自分が納得できる選択をせめて自分が選ばなければならない。

そうして傷付くのは、あなたで、私なのだから。

 

この「傷付け論」は私の考えの根っこにあるように感じる。

私が傷付き、傷付けながら、今の思想に辿り着き、そうして書き連ねた。

昨日も、明日も、変わらずに、あえて言い切ろう。

 

誰かを傷付けながら今日も生きてゆく。

 

この記述でまたぞろ誰かが傷付くのだろう。

しかし、この気付きは私には必要だった。

何せ30余年、どう振る舞えば良いがとんと見当も付けられなかったのだから。

 

これで少しは生き易くなれば良いと、冷めたコーヒーを飲み干す。