ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

何が役立つ才になるかは、より多くの短所を知る所から始まる。

才能の捉え方を取っ掛かりに考えます。


f:id:uenokoeda:20170301121228j:image

 

スポーツジムにあるダンベルのように重く、身体は畳の上に置かれてます。

それでも、クイズ番組の難関問題を5秒で解くように冴え渡り、脳は働いています。

最近は短文な記事ばかりでブログと名乗るには恥ずかしいです。

今日も日向で寝転ぶ猫のように気だるく、人差し指で書いています。

 

私には人より足りないことが多々あります。

怠け癖、大雑把、悲観主義、片付け下手、KY、コミュ障、粗忽、無精者、後回し癖、否定癖etc.

一言で「無能」です。これだけ役に立たない人間もそういないでしょう。

そんな私が不届きにも才能について書こうと言うのですからお笑い草かもしれません。

私に言わせると「足りない」からこそ考えざる得ない事柄で、笑われようとも書かなければなりません。

 

以前、当ブログの記事で才能について書きましたが、不完全燃焼な部分があります。

回転寿司屋で数枚の寿司を食べて薄くなった醤油に追加するように少し足します。

時と場合と状況によって、役立つ才能がある。 - ネガティブ方向にポジティブ!

 

伊原西鶴は「人は才で活かされる」と言ったらしいです。

伊原西鶴は多才であったらしく、才能ある人故の発言かもしれません。

しかし、無能な私には別の意味で重宝しています。

それは、「人は才によって活かされる」のであれば「才が無ければ死ぬより他がない」と考えたからです。

 

しかし、前述した通り、全うな感性だと私は社会不適合者の無能です。

何か役立つ才、社会が発展する又は文化を熟成させるような才はありません。

一昔ならば、向いていることが才能の一端を担うと断言できましたが、私の無能が向いていることを否定しました。

具体すると、前職は向いていると考えてましたが、不用意な発言で退職の件です。

 

映画「4分間のピアニスト」でピアノ教師のクリューガーが主人公に対して「(中略)人には成すべき使命がある。今の私は何をすべきなのか。恐らく、耐え抜くことね。でもあなたは、あなたの使命は火を見るより明らか。演奏することよ」と語ります。

ピアノの才能がある主人公に対しての憤りも込めた勧告です。

何故、「憤りを込めた」と言えば、主人公が暴力的で刑に服しているような人間で、散々やらかしているから。

圧倒される才能であっても、他の欠如で台無しになることがあることを示唆しています。

 

凡人である私には、誰かに救い出されるほどの才能がないから余計に悲惨です。

死にたがりの私ですが、「無能」だからこそ感じる「死」があります。

しかし、無能を免罪符に死を選べるほど「私」を知っていません。

私の追求をするならば、無能なら無能なりに生きなければなりません。

 

故に、才能の捉え方を変えなければなりません。

 

蟻は女王蟻を頂点に社会を形成してますが、その中には働かない蟻がいます。

全体の2割ほどが働かない蟻らしいのです。

何故、働かない蟻がいるかと言えば、働いている蟻が働けない時に替わりに働くためです。

例えば、巣穴に水が大量に入り、働いている蟻だけでは対処が追い付かず万事休すかと思う時、働かない蟻が主導して対処するそうです。

公園の巣穴に如雨露で水を流して遊んだ子どもが居たら、その瞬間働かない蟻は働いています。

 

ネットワークビジネスの勧誘にあえて乗って某ファミリーレストランに行った時、「短所を長所に言い換える」天才がいました。

彼にかかれば、どんな短所も長所に言い換えてくれました。

働かない蟻の「怠け」は「いざと言う時発揮するため」と言い換えるならば。

才能と言うものは、時と場合と状況によって替わるのでしょう。

 

実際、私の「怠け癖」は夜勤において「昼間でも休める」ことに繋がりました。

故に考えます。

あえて、言い切る。

 

何が役立つ才になるかは、より多くの短所を知る所から始まる。

 

先に上げた私の短所は、言い換えるならば。

自分に正直、おおらか、多面的に見ようとする、細かいことに拘らない、自分を曲げない、黙するは銀、愛嬌がある、腰を据える、よく吟味する、あらゆる可能性を考慮する…

となるのでしょうか?自分で言うと気色悪いです。ナルシストか。

第一、無理があるのもありますし。まだ、その時でも場合でも、状況でもないだけかな?多分。

 

皆さんの良さが社会に役立ちますように。

『告白』

詩を書きます。

昔、バレンタインデーについて書いた詩があったな、と思って発掘。

2月も終わるし、ここら辺で投稿。

来年はチョコレートが食べられるかは謎。

 

『告白』

 

2月14日の夕焼け時。

河川敷沿いの通学路。

髪を染めた短髪の少女。

待つ相手は幼なじみの男の子。

 

少女が着ているのはピンクのライン入りの黒生地のスウェット。

そのスウェットの右ポケットには100円のチョコレート。

左ポケットには手作りのチョコレート。

少女は今日、幼なじみに告白の予定。

 

自転車に乗って来た幼なじみ。

少女は短く彼に聞く。

「チョコレート、欲しいていうから」

「右と左、どっちが良い?」

 

少女は願う。不安な気持ちを押し殺して。

幼なじみは答える。

「両方、じゃ駄目?」

「俺は両方欲しい」

 

少女は怒る。嬉しい気持ちをひた隠して。

少女は告白する。

「好き」

 

2月14日の夕焼け時。

河川敷沿いの通学路。

髪を染めた短髪の少女。

影が重なり一つになる。

『ひとり自由俳句その3』

詩を書きます。

1月にTwitterで投稿した俳句。

その3か…思った以上に分量が増えたな…俳句のカテゴリーを別に作ろうかと考え中。

 

『ひとり自由俳句その3』

 

父親の、怒鳴る顔見て、首傾げ。

 

空元気、見せかけ実は、超元気。

 

あの時の、思いの丈は、燃え尽きぬ。

 

季節感、かなぐり捨てた、十七字。

 

解らない、瞬き一つ、及ばない。

 

新聞を、切り抜く姿、母怯え。

 

空き缶を、後で捨てると、また並べ。

 

滔々と、注ぐ灯油と、耽る夜。

 

目指す先、金星火星、取り合えず。

 

蜘蛛の糸、掴む亡者を、眺める吾。

 

無責任、その神様に、仕えてる。

 

あの人の、笑顔に返す、変な顔。

 

繰り言を、手繰り綴った、寄せ集め。

 

諦念が、金科玉条、吾の支え。

 

お雑煮に、カレーの粉末、間に合わせ。

 

水素水、知らぬは仏、愚者の幸。

 

うたた寝し、寝ぼけたままに、日を跨ぐ。

 

朝六時、雪かきの音、外を知る。

 

閲覧者、考慮せぬまま、投稿す。

 

諭吉さん、最初十人、今一人。

 

人まだら、一人参拝、初頼み。

 

孤立する、理由探して、また孤立。

 

まろび出る、言の葉聞かれ、しかめ面。

 

励まされ、凹んだこころ、隠す笑み。

 

白髪ある、親の頭に、見ない振り。

 

間違える、是正する知恵、吾には無く。

 

何度目か、世界を閉ざすのは私。

 

順番を、耳をすまして、じっと待つ。

 

悩み事、長風呂したら、茹で上がり。

 

履歴書に、載せる写真は、剃った顔。

 

英文の、返信急ぐ、翻訳機。

 

自己の底、水面に浮いて、また潜る。

 

推敲し、考察してたら、夜が明けた。

 

振り向けば、呟いた跡、点々と。

 

氷道、最強寒波、いざ勝負。

 

世を拗ねて、自分の影と、にらめっこ。

 

引き延ばす、無味な言葉と、散歩道。

 

矮小な、吾の深層は、広大だ。

 

些末だが、動いたことは、事実だし。

 

愛犬や、少し落ち着け、エサはある。

 

無一文、桎梏の身に、空っ風。

 

何那由多文字書いても、足りぬ意味。

 

美術館、絵と吾の対峙、余分なし。

 

正直に、嘘吐き名乗る、半端者。

 

ポジティブに、言わせてみたが、無理がある。

 

ほら呑めや、酒を呑め呑め、と濁され。

 

怠けども、暇に潰され、職探し。

 

鳥頭、過去を三歩で、置き去りに。

 

外にいる、福を招くに、豆を煎る。

 

「暇だ、暇」、寝言繰るのに、忙がしい。

 

少女像、そっとマフラー、されるけど。

 

七度目の、再放送を、母と観る。

 

面接後、今か今かと、電話待つ。

インターネットの知識は、私の脳みそより断トツで信頼できる。

インターネット依存を取っ掛かりに考えます。


f:id:uenokoeda:20170226170544j:image

 

ビートたけしが自身の著書でインターネットに対して下記のようにコメントしたそうです。


 「(前略)コミュニケーションやエンターテインメントのツールとしてスマホが役に立ってるのは認めるけど、かといって「ネットで調べればいいから知識はいらない。要はネットを使いこなす頭脳だ」みたいな風潮は絶対おかしいね。

映画を作ったり、芸術作品を作ったりするときには、かなり専門的で深い知識と理解が求められることがある。だからオイラも調べ物をすることがある。だけど、そんな時にネットで調べても、本当に知りたいと思う情報はほとんど出てこない。適当に聞きかじった噂や、間違った情報は論外。正しい情報だとしても、ネットで見つかるのはどこかの雑誌や新聞の引用、いわゆる又聞きばかりで、その「奥」まで到達しない。本当の意味で「調べる」ということは、専門書を読んだり、その道の権威に話を聞いたりして、「ネットに出ていないくらい深い内容を掘り下げること」なんだよ」(一部抜粋)

 

グサッと胸に突き刺さります。

私は記憶力に自信がなく、うろ覚えの知識で今まで生きてきました。

 

以前、うろ覚えをネタに一本記事を書いたのを思い出して当ブログ内検索をしてみました。

下記リンクがその記事です。

uenokoeda.hatenablog.com

 

当ブログの検索で「うろ覚え」で検索すると幾つかの記事が浮上します。

それだけ私がうろ覚えで記事を書いていると言う訳です。

ビートたけしの発言は私の浅い知識とインターネットの過度の依存を指摘されたようで心臓が軋むような痛烈な痛みがあります。

別の人にも「機械に頼り過ぎじゃない?」と言われました。

 

私自身の記憶力より、機械の方が余程信頼できると考えてます。

インターネットが使えない現実の世界での会話だと適当な相づちと「ほら、アレです」と手振り身振りで話してます。もしくはひたすら黙っています。

記事を書いていれば、「この言い回しであっているか?」、「正確にはなんだっけ?」等、よく検索しています。

 

何処かで深い知識を仕入れなければいけないのでしょうが、何処まで深く知れば良いのか?は広大な海原の前にただ立ち尽くすような茫然とします。

そも、何を深く知れば良いのか?現在は私は自身を求道者と謳っているので、神住まう森を分け入るつもりで考えなければならないかな?とも感じます。

でも、私にしか興味がないからな…関心と知識は比例するのかもしれません。

むしろ、「人と関わるならば」が前提かもしれません。人と関わるのは避けたい私は深淵な知識は望むべくものではないのかもしれません。

 

何れにしても私は考えます。

あえて、言い切る。

 

インターネットの知識は、私の脳みそより断トツで信頼できる。

 

こうしてよりインターネット依存が増すのでしょう。

将来は頭の中が羽よりも軽くなるやもしれません。

いや、すでに頭の中は心太と入れ替わっているかも?

 

皆さんの知識が皆さんの人生を豊かにしますように。

ネガティブ思考は私の運命を悲哀と喜劇で彩ることになる。

危険な思想を取っ掛かりに考えます。


f:id:uenokoeda:20170225171731j:image

 

窓の外の広葉樹が黄色く光っています。

日の当たらない針葉樹は青く、夕闇のコントラストを演出しています。

葉の隙間から見える空は透き通るような水色で、今日が晴れていたことを伺えます。

今日はどんな1日だったのか、椅子にもたれながら馳せてます。

 

ふと、前職を解雇された理由に私が危険な思想であると判断されたことが頭をよぎります。

何故危険な思想が解雇の事由に成るのだろうか?

考えるだけなら、何を考えても問題はないのでしょう。

考えるだけではなく、世の中に投げかけたことが問題で、著しく会社に迷惑と損害を与えた、と考えられます。

 

マザーテレサは次のことを言いました。

 

「思考に気をつけなさい、
それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、
それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、
それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、
それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、
それはいつか運命になるから」

 

危険な思想はいつか危険な言葉を言い、それがいつか危険な行動へと移る。

そうした行動がいつか「危険なことをすること」を習慣となり、いつか危険な性格へとなる。

そして、危険な性格の人物の運命は勧善懲悪の理に従い、罰を受けるでしょう。

だから、危険な思想は怖がられるのです。

 

私の今の現状はそうした運命であったと考えました。

あえて、言い切る。

 

ネガティブ思考は私の運命を悲哀と喜劇で彩ることになる。

 

そんなことを考えながら、窓に再び目をやると、いつの間にか障子で閉められてました。

私のこれからを暗示しているようでワクワクします。

 

皆さんの運命が幸多からんことを祈ります。