水草を取っ掛かりに考えます。
金魚やメダカの水槽に入れて環境を整える水草。
実家で母が飼っているので、ホームセンターで偶に買ってます。
先日、実家に帰省しまして。いや、徒歩30秒だから帰省ってのも変ですけど。
夕食を食べて、一息着いていたら。母がおもむろに言う訳ですよ。
母「お勝手の水道の所へ行ってみ?」
私「?ん、何があるの?」
とか言いながら、行ってみると…
あら、可愛い。
母「そこのサカナさ、色がおかしいよね?」
私「?んー?そうかな?」
水槽の中に1匹赤いのがいたけど、おかしいとは感じませんでした。
母「水草にさ、卵が付いていて、それが孵ったと思うんだけど」
私「へえ、メダカの?」
まあ、何かメダカっぽく見えないけど。
母「ううん、水草に付いてたんだよ、丸いのがさ」
私「?ん?水草に?」
いや、だから、メダカの、じゃないの?
少し考えて、ふと思い付いたことを口にしました。
私「…あ、買ったときから!」
母「そうそう!それが孵ったんじゃないかな?」
なんと!家にあるメダカの卵ではなく、買われたときには既に付いていたとな?!
私「え、買った水草に卵が付いているもんなの?」
母「水草を育てた所から刈って売っているからじゃない?」
ああ!そういうこと?と私は頻りに頷きながら、母と水槽を交互に見ました。
私「へえ!卵が還るんだねぇ」
母「ね、何か色がおかしいよね?」
母、色を気にし過ぎ(笑)でもそう言われると確かに違うかも?
しかし、驚きです。そんなことがあるんですね。
この水草なら安全と産み落としたサカナさんもまさか刈り取られるとは思わなかっただろうし。
その水草の卵が還る、なんて奇跡。
そんな私はこう考える。
あえて、言い切る。
世界は驚きで満ちている、私が気付かないだけ。
ここでうろ覚えの知識を披露しよう。
(最近、うろ覚えでも良いや、の精神になってきた)
驚きの哲学、なるものがあって。
「驚く」ことは自らできないのです。
例えば、「笑う」ことは楽しいこと、幸せなことを思い出せば、笑えます。
「悲しい」ことは、不幸なことを。
「怒る」ことは理不尽なことを。
思い出せば、自ずからできます。
でも、「驚く」ことは驚いたことを思い出しても、それは知っていることである故に、「驚く」ことができません。
自分の思考の埒外の出会いで引き起こされます。
知っていることが増えていけば、「驚く」ことが減っていく訳です。
なら、どうすれば「驚く」ことができるか?
驚きにいこうとすれば、驚きません。そこに「驚く」ことがあるのを知っているから。
知らない、その部分に気付くかどうか。「驚く」ことの鍵はそこにあります。
他の人に言わせれば、水草に卵なんて知っていることだから「驚く」ことに値しないかもしれません。
しかし、我が家の台所に水槽があることを私は知りませんでしたし、売られていた水草に付いていた卵が孵ったことにただただ驚きました。
こんな身近にこれほどの驚きがあったことに私は気付きました。
きっと、世界は驚きに満ちているのでしょう。
それが知っていることと蓋をして、気付けなくなっているだけ。
なら、どうやったら驚くことに気付けるか?
自分の気持ちに素直になれば良いのでは?
日常の様々なことをしていて、自分が感じたことをそのまま受け入れていけば。
それが気付く土台になる、多分。
後は楽しみに待つ。うん、向こうから来るのを待っていれば良いでしょう。
それは、直ぐに訪れるかもしれませんが、10年20年先かもしれません。
何せ、自分の知らないことですからね。自分の思い通りにはならないでしょう。
そういう待つことが楽しめれば、自ずと「驚く」ことになるでしょう、希望的観測で。
あー、それにしても水草に卵ねぇ。
いや本当に、びっくり仰天だ!
さてさて、今日はどんな「驚く」ことがあるのかな?ないのかな?楽しみですね。