才能とは何だろうか。
抜きん出た才能を持った非凡な人間と、似たり寄ったりの普通の人々の差は、一体、何だろうか?
掃いて捨てられてここまま埋もれるしか、普通の人々は、私は、ないのだろうか?
知人にアマチュアの朗読家がいる。
彼の知人の声は、洞窟で反響する雫の音のような、静けさと力強さがある。
長野県内の上から下まで、読めるなら何処にでも馳せ参じて読んでいる。
時には東京や京都まで行って、詩を朗読する、最早セミプロと言っても過言ではないだろう。
そんな朗読家のブログで、「才能がないけど作る」という記事を書いていた。
大まかに記事内容を要約すれば、知人がとあるオーナーと「劇を作ろう」という話になってアイデアを出すが、出されたアイデアは既に先人が思い付いた物であることに愕然としてしまう。
これは才能がないな、でも、作っていこう、と知人とそのオーナーは話した、と。
朗読家を自称する彼は、その読む技術や声の確かさなど、私には無い、才能だと感じている。
そのオーナーさんも才能をある人を見付ける才能がある、と評されていて、そうだろなと考える。
その2人が「自分たちには才能がないけど、作っていこう」と言葉を交わすのに、ただ、私は呆然としてしまう。
朗読家の記事を読んだ後、思わず悶えてしまった。
今まで、才能の無さに嘆いて、才能が無いことが1つ2つと気付くことが増えていく私には、どうしようもなく苦しくなる。
何も為すことができていない私は、それ以前の、普通の営みさえ精一杯だ。
私は「私」を追求している。
それは思想の追求とも言い換えられるかもしれない。
しかし、思想の追求は、才能とはまた違うだろう。
この骨と皮で包まれた肉の塊の繊維の隙間に潜り込むように蝕む焦燥は、僅か1100グラムの重さしかない脳の幾数本の溝から這い出てくる。
足をばたばたとさせるこの悶えは、才能への渇望か、それとも才能の無さの羨望か。
「それでも、やらねば」と考える私には、朗読家の記事はすこぶる堪えた。
何かを作り出す作業というのは、苦しい。
そのくせ、その苦しさが報われることの方が圧倒して少ない。
それでも作ろうとするのは、作り出す苦行そのものが好きなのか、と勘ぐられても仕方ない。
しかし、そういうことではない。
いや、そういう部分も楽しいが、何故作るのかには至らない。
そして、未だにその解は、私の中にない。
才能とは、何だろうか?
答えが分からないまま、街を徘徊するゾンビのように、生者を求めて彷徨う。
真っ赤な血と肉をどうか私に食べさせて欲しい。
結句、私は諦めの悪い、それだけの話しだ。