思考することを取っ掛かりに考えます。
スターバックスに入って、コーヒーとケーキを頼みます。
ここに座って集中しようとスマートフォンで何事か書こうとします。
しかし、一緒にショッピングに来たであろう女性たちやカップルの会話が気になってしまいます。
結句、黙々と食べてスッと立ち去ることになります。机を占拠することに勇気がいります。
さて、帰ってから色々と思考をし始めます。
時計の秒針や金魚の水槽で唸る水中ポンプの音に心落ち着いてきます。
内面へ探るのに自分一人がやはり性に合うようです。
普遍とは何だろうか?唯名論と言うのがあったが、名前について確か考察したな。そこら辺から攻められるだろうか?
大事にすることを考えたら、私が居ないことに気付いたが、前に私は他者の中に居ると考察したような…関係性は見出だせるだろうか?
撮影について説明したら、「社会の肯定はしているけど、自己は否定したままだ。自己の可能性を示すのはどうだろうか?」と意見を頂いたが、無能な私の可能性とは一体何なのか?それは示すにはどうしたら良いか?
ずっと正義について考察していない。「くらべること」での是非を見直すべきだろうか?
等々、考えたいことは山ほどあります。
しかし、こうして考えるに次の仕事はどうしよう、物は捨てるべきか?などの実生活については小指の先ほども考えていません。
父はよく、税金についてだとか行政についてだとかを勉強しろと言いますが、どうにも興味が沸きません。
これは良くないのですが、税金を多く払おうが支給額が少なくなろうが構わないです。
そういうのは専門の人に丸投げしているので、言われたことを粛々と片付ければ良い気がしています。
ここも普通の感覚ではないのでしょうから、直すべきかと今は考えます。
しかし、税金や仕事や生活リズムに変えようとしなかったのは、アドラーの心理学で言えば自らそう望んでいるから変えようとしないということ、みたいです。
つまり、私は他者に嫌われたいと深層心理で考えている、かもしれません。
私を大事にできないことについては少し考察できたので、あながち外れていない所が怖いと感じます。
どうしても私は内面の追究がしたいのです。
高校までは自他共に「変人」と名乗っていましたが、どうして「変わっている」のかは特に気にしていませんでした。
きっかけは専門学校卒業のために友達とのディスカッションだった、と思います。
内面の解らない部分が解ったとき、気持ちが高揚したのを覚えています。
それから、自身の内面にとことん向き合って来ました。
多分、10年くらい内面の追究をしていますが、未だ私は私を捉えることができずにいます。
これは一生ものだな、とその果てしなさに驚いています。
何時かは内面の追究を止めるべきだろうか?
良い歳した大人がまるで思春期のようなことに拘っている様はぞっとしないでしょう。
しかし、それは何時決断すれば良いのか?
そも内面の追究に終わりがないから打ち切る、と言う姿勢は本当に正しいことなのか?
つい最近言われて嬉しかったこと。
「そこまで考えている人はいない」
何かを追究することは、とても疲れるから生きるのに必要ないならば何処かで諦めた方が良いのでしょう。
されど、私は内面の理解をしたい。
諦めを信条としている癖に内面の追究に諦めない矛盾な私。
あえて、言い切る。
内面の追究は私の生きる手段であり、目的だ。
直すべきところは直そう。
忠言には耳を貸そう。
私さえ見失わなければ、どうにかなる。多分。
思考の放棄はしないでおこう。「人間は考える葦」なのだから。
私は内面の在り方をこう考えますが、皆さんはどうでしょうか?
それでは、またのお越しをお待ちしております。