今まで書いた脚本をちょっと読み直して、気付く。
登場人物の台詞、全部私の考えてそうなことだ。
登場人物それぞれが違う人間のはずなのに、 読めば読むほど私が考えそうな印象がある。
小説家は精神を病み易いと聞いたことがある。
他者を描くのはその他者になって思考するから、 自分が何者か分からなくなるらしい。
そうなると、私は私のまま思考して、 他者というガワだけ着せている気がする。
中には良い感じに書けている脚本もあるが、 それは当て書きで書いたものだ。
演じる人が言いそうなこと、 やりそうなことを基準に書いているためか、 私の思考とは離れられているのかもしれない。
一から私が考えたキャラクターは、 色々な意味で私の代弁者でしかない気がする。
速筆が私の強みだと考えていたが、 私の思考をつらつらと代入していくのだから、 早いに決まっている。
私に対する思考はしてきたから、私については雄弁だ。
しかし、作品として考えるとこれはマズい。
一本、二本なら面白いかもしれないが、数が増えれば飽きが出る。
似たような人物が、似たようなことを言い、 似たような行動をする。
どれもこれも似たような脚本に先があるとは思えない。
しかし、速筆である点はやはり美徳ではある。
早く書ければ、修正もし易いからだ。
そも、私が書くのだから、私の匂いが完全に消せる訳がない。
私が言いそうな、似たような言い回しが問題なのである。
即ち、私の視野が狭いのが問題なのだ。
視野を広げられれば良いはずだ。
自分とは違う、 私が言わなそうな考えをメモ書きでもすれば良いだろうか?
しかし、私のセンサーの感度が独自な気がして、 結句私が考えそうな人物像しか描けないのではないか?
もしや視野を広げるというのは存外に難しいのかもしれない。
どうしたら私とは違う人物を描けるのだろうか?
偉人伝でも読めばまた違うだろうか?
また「普通」が私を嘲笑う。
「普通」からかけ離れているのは致命傷なのか、 作品の個性になっているのか、推し量れない。
役者としてもどこまでいっても「私」なのが強みになっているが、 引き出しの少なさは辛くもある。
飽きられ易い人格なのかもしれない、 人間の多面的要素が薄い可能性がある。
それとも私のもっと内側を掘り下げれば、 私の知らない私がまだいるだろうか?
書くにしても、演じるにしても、私は「私」なのだけど、私は「 私」を越えられない。
内面追求の限界だろうか、いや、まだ未踏な深みはあるはずだ。
何もかもが足りな過ぎる。
「私」の自意識を乗り越える、 そうして見える世界があるかもしれない。
考えるに面白い「自意識を乗り越える」、新しいテーマにする。
人間としての厚みが欲しい3月12日、 幾何度目かの自分を見つめ直して、また考える。