ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

「あなた」とは「私」を唯一無二と承認するためにある概念だ。

 「あなた」を取っ掛かりに考えます。

f:id:uenokoeda:20170622140010j:image

 

「私」について思考する30歳独身童貞。

結婚できない奴にはそれなりの理由がある、と言いますが、私の場合は間違いなくこの拗れ過ぎた性格だからだろう。

「まだ若いんだから、大丈夫」は偏屈な私には当てはまらない。

「まだ若い」が通じるのは、一度や二度の恋愛経験がある人か、まともな感性の持ち主であることを忘れてはならない。

勘違いして、「そうだよね?凸しまくればその内できるよね?」と数撃ちゃ当たる戦法をして相手に迷惑をかけることになりかねない。

ならまともになれば良いじゃない?と言われても、止められない止まらない、欲望の泥沼に嵌まっている人間に何を言っても仕方ない。

あーあ、何て私は要領の悪い馬鹿なのだろうか。

 

こうした記事は、全然アクセスが伸びないから、読者の興味はないだろうと容易に想像できる。

一個人の内面についてなんか知った所で、人生に何の役にも立ちやしない。

自分より下等な人間を見て、「こいつよりはマシ」と精神の安定には役立つかもしれないが、私のような底辺と関わる時間があったら、自分のために時間を費やした方が遥かにマシだ。

各ブログでは、筆者の経験談から「こうした方が良いよ?」と書く大変役立つ記事が巨万とあるし、出涸らしで入れた薄い紅茶より薄い私の人生経験など太刀打ちできる以前の「そも、記事にする必要があるの?」の問題だ。

ならば、何故、書くのか?「書く」ことで発散しなければ暴発するからだ。

周りに迷惑をかける前に、自発して発散しないときっと誰かに死ぬほど面倒な思いをさせるだろう。

なら、読者に出会い頭の衝突事故のような痛い記事を読ませて良いのか?は別だ。

そこを考え始めたら、「そも、私にブログは必要なのか?」という更新するか辞めるかの話になる。

読まれる方は表示されるタイトルと一行目の文章で、それぞれ自己責任で判断して頂くしかない。

これも世のため人のため、と誤摩化しながら、今日も出涸らしをティーカップに浸す。

 

さて、話が大いに脱線したが、本題に入る。

以前、私の中に「私」がいない旨の記事を書いた。

uenokoeda.hatenablog.com

 

また、命を取っ掛かりに考えた際に「自己とは、他者の中にある」と結論付けている。

uenokoeda.hatenablog.com

 

こうした、「私」と言う概念の捉え方をしているのだが、ふと、気になったことがある。

「私」は「あなた」ではないのは、何故か?

「私」の概念があるように、「あなた」という概念があるのは感覚として分かる気がする。

私がここにいるのだから、「私」があり、私以外の人物が「あなた」だとした認識だ。

私は「私」であるが、私は「あなた」ではない。

しかし、本当にそうなのだろうか?言葉として思考するならば、「あなた」が「私」と違うのは何故だろう?

と気になったので、サクッと思考してみた。 

 

その1、鏡。

鏡に写るのは、鏡面に光の反射した虚像だ。

その鏡面に反射した虚像は、鏡の前に私が立ったが場合、「私」が映し出される。

しかし、鏡面に映るのは光を反射した虚像であり、質量を伴った私ではない。

また、鏡に映し出される虚像は私とは左右反転する。

以上の事から私以外の人物であり、故に「あなた」と言っても問題ないのではないか?

鏡の前に立って「お前は誰だ?」と聞いていく実験は有名だが、実像の世界と虚像の世界と切り離されているならば、「私」は「あなた」である。

 

しかし、実際の感覚では疑いなく、鏡面に写る私は「私」だ。

虚像の「私」は触れることはできないが、実像の私、質量を伴った私の肌は触ると虚像の「私」も同様に触る。

時間差がない、衣服が同じ虚像を私と認識している訳だ。

 

別角度から考える。

動物番組である程度の知能がある動物に鏡を見せると、鏡に映る虚像を最初、自分だとは気付かない。

ある程度、学習すれば鏡に写るものが自分であることが分かるようになる。

ここに、「私」と「あなた」の境目があると仮定する。

即ち、アイデンティティ、「自己」の確立である。

「自己」がある故に「私」と「あなた」が切り離される。

逆を言えば、「自己」がなければ、「私」は「あなた」になる。

普通に考えれば、鏡に写る自分がどうして疑いなく「私」となるのか。

そこには経験則、鏡の前に立つと必ず同じ容姿の人間が映し出され、この写る虚像はイコール私であり、「私」だと認識する、ということだろう。

 

その2、影。

日の光に照らされて、地面などに浮かび上がるものが影だ。

その影は「私」の影である場合、「あなた」の影ではない。

鏡との違いは、鏡の場合は「鏡に映る私」であるが、影の場合は「私の影」である点だ。

先ほどの鏡の位置に私がいて、私の位置に影がいるのだ。影の立場から言えば、私が虚像になる。

そうすると、日の光で私を通して影が私を見ている、とも言えるのではないか?

この影も経験により、日の光を浴びると必ず私の足下に現れる現象で、まず間違いなく私から発生していると考えている。

 

更に影は、概念においては「私」ではない。

鏡においては映し出される私は「私」であるが、影としてある私は「私」を通してできたものだ。

人の影を指差して、「あの影は「私」の影である」とは言わないし、自身の足下を指差して、「この影は「あなた」の影である」とは言わない。

鏡と同じように挙動は同一に関わらず、影は「私」ではないのだ。

むしろ、左右一致する点で言えば、鏡より「私」である。

しかし、影は「あなた」でもなければ「私」でもない。

 

ここに考える点がある。

鏡で写るのに見ているのは、実像である私である。

影で写るのに見ているのは、私から発生したものである。

出発点が質量を伴った唯一の人間であるかどうか。

つまり、私は一つしかいない、という認識だ。

二つ以上は私はなく、故に影は「私」ではない。

 

その3、双子。

一卵性双生児という外見が全く瓜二つの人間がいる。

私が双子だとして、もう一人の人間と私は何故、同一の「私」ではないのか?

影においては「私は一つしかいない」という認識がある。

外見が同一に関わらず、相手を「私」ではなく「あなた」と見る。

これは、「私は一つしかない」という「自己」には外見のみならず、性格が含まれている。

また、同一時間軸に別の場所にいること、経験や知識の違いなどもあるのではないか?

一つしかないの認識とは、差異が全くなく、類似する点が完全に一致することだろう。

次いで、「私」が「あなた」ではないことは、「あなた」が「私」ではないことも示唆している。

つまり、「あなた」も同様に「一つしかいない」という認識である。

 

その4、ドッペルゲンガー。

では、「あなた」が「私」と言う認識だった場合、どうなるのか?

ドッペルゲンガーとは、自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象である。

自分とそっくりの姿をした分身がいた場合、「私」と認識するものが二つある状態である。

ドッペルゲンガーは私になるために乗っ取り、私の殺害をしようとする。

この考え方は哲学でいう「承認をめぐる闘争」に似ている気がする。 

それは、自分こそが「私」であるという意識であり、それを証明するためにはもう一つの「私」と名乗るものを否定しなければならない。

ヘーゲルの「承認をめぐる闘争」では、闘争に負けた方が奴隷になるが、勝った方の主人は奴隷の労働なくして成り立たず、関係の逆転が起こるとある。

私はこれを客観視の会得、私が「あなた」になることにより、私の中の「私」を認めることと解釈しています。

 

以上の諸諸々から、私の考えることは。

あえて、言い切る。

 

「あなた」とは「私」を唯一無二と承認するためにある概念だ。

 

「私」という「自己」が確立している。

「私」は「一つしかない」と認識している。

「私」と同様に「あなた」も「一つしかない」と認識している。

私が「私」と認識するには、「一つしかいないあなた」とくらべることにより、「自己」が「一つしかいない私」であることを知る。

 

ここでいう「あなた」は私が「私」を保つために作られた装置だということだ。

絶海の孤島で、「あなた」がいない状態が通常だった場合、「私」を保持するためには私以外、「あなた」が必要だ。

それは、架空の人物や人形など、「私」の保持のためには「あなた」という存在がなければ、「私」が承認されず、「私」が瓦解するだろう。

 

…うーん、「私」は瓦解するのか?何せ、一人でしこしこと思考しているだけで、大学の論文や実験などは見ていないからな…

愛情を与えられなかった乳児は、生後しばらくして亡くなるというのは聞いたことがあるが、「自己」の確立にどの程度の私以外の人間が必要なのだろうか?

疑問は尽きないが、一度、ここで考えるのを止める。

 

それにしても、こんな長文を果たして誰が読むのだろうか?

読まれたとして、何かその人の中の「自己」に影響があるだろうか?

私以外の「あなた」が、「私」を獲得するのに役立ったというなら、自己満足の極みであるこの記事も多少意味をなさなくなるだろう。

(「意味をなさない」というのは、「詰まらない」ではないという意味だ。ややこしい)

 

皆さんの「皆さん」の精神が穏やかでありますように。