「私」の自意識の境目について持論を書いたのは、はていつだったか?
気になって遡ってみた。
下記リンクがその記事だ。
2017年9月22日とある。
今が2021年7月22日だ。
3年と10ヶ月前に書いている。
3年と10ヶ月、中々の昔である。
今でも私はこの境目について考える。
「私」の自意識はどこにあるのか、気になって仕方ない。
私が意識すれば「私」の自意識の境目が生まれる。
しかし、水道水に意識を向けても、水道水に「私」の自意識は見出せない。
この身体、「私」の自意識が有している身体が発端だろう、などと考え直していたりする。
最近は、私の影は分離できるな、と考え始めている。
私の身体から影は発生するが、影から私は発生しない。
また、あなたの身体から影は発生するが、影からあなたは発生しない。
影において、私とあなたは同一であるが、自意識において私とあなたは明確に違う。
私の影とあなたの影は同一なのに、私の影とあなたの影は明確に違う。
この矛盾を成立させているのは、身体、自意識を宿しているその身体だ。
私の身体とあなたの身体は別であるが、どこかしらの光源によって生み出された影は物理的に存在する身体を介して、同一の影を生み出す。
淡い濃いの違いはあるかもしれないが、影である点で私の影もあなたの影も同じなのだ。
その影の起点、私の身体か、あなたの身体か、が重要なのだ。
「私」という自意識は、「私」という身体があって成り立つ。
私という身体があって、「私」の自意識がある。
3年10ヶ月前の論では、その身体をかなり拡張させて考えた。
分子レベルで考えれば、酸素を二酸化炭素に吐き出した時に出る炭素は元より「私」の身体から出たもので、その意識した瞬間に境目が出る。
しかし、普段、分子レベルで「私」の自意識が存在しているのか、となるとまた別の問題な気がする。
そも、その分子は私の身体由来であり、起点である。
「私」の自意識を考える上で、自意識の起点である身体を定義付けるべきかもしれない。
と一気に考えてみた。
誰かとこの話をしたい。
私が前に書いた記事を読み直してみようか。
新しい発見があるかもしれない。
その時はここで書いたことをまとめ直しておきたい。
一先ず、備忘録を兼ねて。