思考を空転させ続けて幾早々。
コツコツと軽い玉が、頭蓋骨の内側を叩いている。
いつもは、思考を回転抽選器のようにぐるっと回しても、出てくるのは白玉ばかり。
しかし、時に、金色の玉がぽっと出て、当たり鐘がチャリンチャリンと鳴り響くような、天啓がある。
喫茶店で「資本論」を開く。
「資本論」の最初の4ページを行ったり来たりと読んでいるが、一向に頭に入らない。
貨幣形態の資本形態、イギリスの工場がモデル…ふんわりと分かるけど、ふんわりとしか分からない。
買ってから何回か開くが、どうにものめり込めない。
顔を上げて、辺りを見渡す。
すると、主張書店「ピースランド」が目に入る。
3畳くらいのスペースで、数十冊の本が並べられている。
何となく、箸休めに、本を流し見る。
と、「弱さの思想ーたそがれを抱きしめるー」なるタイトルの本があった。
ちょっと開いて、読む。
その中で、天使が恋をした映画「ベルリン天使の詩」を題材に身体論について触れていた。
以下引用。
感性というものは、有限な肉体をもつものだけに与えられている。好きな人の頬や身体に触れ、相手の存在の重みを自分の身体で受け止め、触れ合うことにより、空間的に隔てられていること、その距離を埋めることができるのはただ身体をもった有限な存在者だけなのだ。
(『共感する心、表現する身体』)
天使は、恋する相手のところへ行くために堕天使となる。
有限性があるから、愛することや表現的な存在となり、「有限性=弱さ」こそが、「人間を人間としている基本的条件であり、人間存在の本質」とも書かれていた。
そこで、ビビッと来た。
私は、「私」の境目について、思考を深めてきた。
また、「私」の存在を求めて、「私」を追求している。
その行為は、「私」を有限にする行為ではないか?
無限にある意識を、触れられる存在にするために、「私」を引きずり下ろし、有限にしようとしているのではないか?
もし、そう仮定すると、私は「弱者」に成ろうとしている?
確かに自己否定をすることで、自己の存在を確認している。
今までの考察が、繋がっていく感覚がある。
これは…買わなければならない。
1600円したが、構わず、購入。
こういう本との出会いは、書店ならではだろう。
良い買い物をした。
そして、しばらく「資本論」は、置いとくことになりそうだ。
今は、私が感じた感覚を優先したい。
…何時かは読む、と自分に誓っておく。
思考を空転し続けて幾早々。
次の当たりに期待して、コツコツと頭蓋骨を鳴らす。
投稿します。