ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

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夕食は外食、と考えていたが、コンビニ弁当でも良いかもしれない。

将来の健康状態も気になるが、食べないことには明日も繋がらない。

健康であればできることが増えるが、そも明日も身体を維持するためには食べるしかない。

 

最低限のところで思考が留まっている。

最低限さえできれば問題ないように感じる。

しかし、それで本当に良いのだろうか?

 

高級品に対して「羨ましいけど買えない」ではなく、「無意味な粧飾が不必要だから買えなくても良い」とする考えが蔓延しているらしい。

長い貧乏生活がそうした高級品、嗜好品に背を向けることになっている。

ダイヤモンドは命がけで掘り起こす人間がいる、と裏側を知った人間の口ぶりで高級品を否定する。

 

しかし、無駄がないと人間の存在意義はどこにいくのだろうか?

生物として生きているだけで良いのなら、「食べる、寝る、生殖する」だけに集約すれば良いのではないか?

そして、そこに「楽しみ」というものは生存する上では不必要なのだから「栄養がある、安心して寝れる、互いに健康である」というだけで良いはずだ。

 

ただ、それだと何のために生きているのか、分からなくなるのだろう。

私は自然と「楽しい」を見出せるのだが、それさえ人間には不必要としてしまうのは違うと考える。

何故なら、人間とは考える生き物であり、考えるとは暇故に考えるからだ。

 

効率化によって、食べ物や住む場所がある程度確保された現代、時間にある程度の暇がある。

暇があるから考える、考えるから新しいことが見付かる、それが人類の進化に繋がる。

暇な時間こそ人間の進歩に必要だ。

 

暇な時間とは自由な時間であり、無駄な時間でもある。

無駄があるから人間を人間としているのである。

無駄があるからこそ、人間は今日まで生き残れたと仮定することもできるだろう。

 

もっと私の人間味を増すためには、こうした無駄を大事にするべきかもしれない。

しかし、その必要性は分かるが、重要性は今一つ私の中で上がらない。

食べられれば良い、寝れれば良い、から発展しない。

 

思考が貧乏思考になっているのだろうか?

「清貧を目指す」と考えていたので、根っからの貧乏思考なのかもしれない。

億万長者には程遠く、それで満足できてしまっているのも問題と言えば問題なのだろう。

 

人間らしく居たいが人間らしさから程遠く、しかし、こうした無駄を考えるので私も人間らしいとも言える。

人間道は奥が深い、と今日の夕食のために夜の町へ出て行く。

鮮やかな靴は人間らしさの象徴か、などまた無駄に考えながら。