似ているけども全く別物ということはある。
0とOはその典型だろう。
0は数字であり、Oはアルファベットである。
文字としての見た目は同じだが、備わっている本質の意味は違う。
「午前0時」と「O型」は違うのは誰でも分かる。
「午前0時」は時間であり、「O型」は血液型だ。
しかし、備わっている本質の意味は違うが、見た目が同じだから入れ替えても気付かれないかもしれない。
「午前O時」と「0型」と書いても、「午前0時」と「O型」と同じだろう。
パッと見では「午前O時」は時間であり、「0型」は血液型だ。
だが注意して読むと、備わっている本質が違うから、全く別の意味であり、同じでないことに気付く。
普段と違う用法であるから、「別の意味」を想像するといった方が正確かもしれない。
果たして、どういう意味になるのであろうか?
「午前O時」は「X」に代表されるような、未確定の時間を表現しているのかもしれない。
若しくは、数字が存在しない世界での時間表記だのかもしれない。
「O時」という概念は一体何を指し示すのか、こちらが想像するのだ。
「0型」は何か種類のあるものの1つかもしれない。
その「何か」によって変化の富み具合が変わる。
「0」本来の意味から「原初」という意味も付加される可能性も想像できる。
「0」と「O」は全くの別物である。
ただ、それを読み取ろうとしなければ、気付かない。
読み取るつもりがなければ、「0」と「O」は同じだ。
「◯」が「0」と「O」の何れかと入れ替わっても、同様だ。
「◯」は記号であるが、「午前◯時」と「◯型」と書けば、伏せ字になる。
読み取ろうとするから、行間が読めるのだ。
似ているけど、全くの別物である。
「0」も「O」も「◯」も似ているが別物だ。
そういうことになるべく気付ける人間でありたい。
もうすぐ0時、ONAKAがぐーと◯った気がする。