銭湯で湯浴みした後、いつもと違う道から家に帰った。
最後に通ったのは1年ほど前だったか、流れる景色を眺めながら呑気に走る。
と、見慣れないコンビニエンスストアができていた。
駐車場がだだっ広いそのコンビニエンスストアの横を通り過ぎる。
はて、何か違和感があるな、と周りの建物をそれとなく見て、気付く。
コンビニエンスストアが立地している場所は、1年前は子ども向けのサーキット場だった場所だ。
思わず「えっ!?」と叫んでしまった。
私が子どもの頃からあり、1組の親子連れが偶に訪れてはひっそりと賑やかす、そんなサーキット場だった。
それが何処にでもあるコンビニエンスストアになっていた衝撃が、私の心を揺らした。
数台の自動車がだだっ広い駐車場に停めてあるのが、無性に寂しい。
自動車の往来が多い通りに利便性の高いコンビニエンスストアができたら、利用しようとする人がいるのは当然だろう。
しかし、ほのぼのとしたあのサーキット場が「利便性」の一言で切り捨てられたような気がして、寂しく感じてしまうのだ。
ただ、1年振りに通って気付くまで知らん顔していた私が「無性に寂しい」と言うのは違うだろう。
何をするにもお金が必要なのだ、私が寂しいと言うのはお門違いだ。
厚顔無恥に、事情も知らずに、部外者が感傷に浸る愚かさに、この寂しさを蹴りつける。
自分の生まれ育った場所が変わらない悲しさ、変わる寂しさ、それを傍観する私の愚かさ。
すべてを引っくるめて、こくんと飲み込む。
あのサーキット場は、今は私の記憶の片隅でひっそりと残るばかりだ。
次に通る時には、あのコンビニエンスストアに寄ってみよう。
変わらない土地に変わることを受け入れなければ。
ただ、言い訳に、ほんの少しの寂しさは持たせて欲しい。
せめて同じになる変わることへの変わらない気持ちだけ、許して欲しい。
振り向かずに家に帰る道の景色を、名残惜しんで通り過ぎる。