ネガティブ方向にポジティブ!

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寂しさを飼い馴らせ!

「寂しさ」をとっかかりに考えた。

 

最近、Twitter上で「寂しさを飼い馴らせ!」とよく使っている。

単純に響きが格好良いから多用しているのだが、「「寂しさを飼い馴らせ!」とはどういうことか?」と質問がきた。

Twitter上でその質問に答えたのだが、勿体ないので、当ブログでもコピペして投稿することにする。

 

 

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目次

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1、「寂しさ」の語釈。

 

まず、「寂しさ」の語釈を「過去に持ち合わしていたモノがすっぽりと抜け落ちた状態」を指すものとする。

この「持ち合わしていたモノ」は人であったり、記憶だったり、物質的な物であったり、人それぞれだ。

重要なのは、「すっぽりと抜け落ちた」という状態である。

 

この「すっぽりと抜け落ちた状態」を人は「寂しい」という。

過去に埋まっていた所がすっぽりと抜けているので、その空いた空間が目について仕方ない、空いた空間の埋まっていたモノがない事実、そのことが「寂しい」と感じる、とする。

 

この「寂しい」の厄介な点は、「すっぽりと抜け落ちたモノ」の部分の代用が本当はないのに、別のモノで埋めることができるような錯覚を抱くことだ。

「持ち合わしていたモノ」の代用はありはしないのに、どうにか埋めたくて別のモノで代用しようとする特徴がある、と私は考える。

 

「寂しさ」をじっと構えば、気持ちが落ちていき。

放っておいても、目の端でちらつき。

蓋をしても、別の日に噴き出し。

「寂しさ」とは、可愛い顔して狂暴な魔物なのだ。

実に厄介、「すっぽりと抜け落ちた」その事実に耐えられない、となるのだろう。

 

2、「寂しさ」との折り合い方。

 

さて、「寂しさを飼い慣らす」とはどういうことか?

「寂しさを飼い馴らす」を言い換えれば、「寂しさと適切な距離感を保つ」ということだ。

そのために必要な手順がある。

 

まずは、「寂しいと感じる私」がいることをそのままにする。

「寂しい」の代用はない、と受け止める姿勢だ。

ここを履き違えると大変なことになる。

「寂しさ」の代用にされたモノは一時的には効用があるかもしれないが、根本の「寂しさ」はなくなる訳ではない。

 

「寂しさ」の代用されたモノにも失礼であるし、代用されたモノが自分の手元からなくなれば、より狂暴になった「寂しさ」で自分が大ダメージを受けることになる。

なので、「寂しいと感じる私」をそのままに認める、受け入れることは重要なのだ。

 

次に、「寂しさ」をそのままにして、普通の日常を送る。

そして、折に触れて「寂しいと感じる私」を思い出していく。

「普通の日常を送る私」と「寂しいと感じる私」を共存させていくのだ。

大事なことは、「日常」と「寂しい」をきちんと区別する。

 

「普通の日常」を送る時には、目の前のことを淡々とこなしていく。

なるたけ、意識を目の前のことだけに集中する。

「寂しいと感じる」時には、他のことは何も手に着かず、ひたすらに自己の内面を意識する。

意識の切り替え、これを意識して取り組んでいく。

 

そうして意識の切り替えを意識して過ごしている内に「寂しいと感じる私」はそのまま「私」の一部となっていく。

「あー、寂しいと感じるのも私自身の問題だな」と「すっぽりと抜け落ちたモノ」をそのままにして良かったと感じれば、「飼い慣らし」に成功だ。

 

後は、「寂しい」と感じれば、「はいはい、寂しい寂しい」と自己完結していけば良いだけである。

近過ぎず、遠過ぎず、「寂しさ」をそのままにできる。

「寂しさ」をコントロールできること、即ち、「寂しさの飼い慣らし」と相成る訳だ。

 

3、人それぞれの「寂しさ」がある。

 

ここまで長く書いておいて今更ではあるが、私自身はそれほど「寂しい」と感じない人間だ。

ただ、「悲しい」や「辛い」などの感情の問題は「すっぽりと抜け落ちたモノ」の代用の幻想を見てしまうことだと考えている。

私は私が持ち合わしている「悲しい」という感情を「寂しい」に置き換えて考えた文章だ。

強ち、間違いではない、と感じている。

 

付け加えて。

このツイートに対し。

「代用」について面白い発想が書かれていた。

 

「寂しさ」が暴走した時に、すぐに無くなる代用を使う方法である。

まず、代用によって、一時的に「寂しさ」を紛らわせることを享受する。

暴走しているので、この「一時的な効用」で一旦、自分を落ち着かせる訳だ。

 

そして、すぐに無くなる代用について、「これでは私の「寂しさ」の代わりになる訳がない」と客観視することによって、自分自身自体を客観化するというのだ。

「代用はできない」ことを逆手に取っているのだ。

代用自体の一時的な効用のみならず、デメリットである「代用でしかない」ことさえ利用する上級者向けのテクニックだ。

 

私自身、「寂しさ」との距離感を考えてみたが、人それぞれ、「寂しさ」との折り合いや付き合い方を試行錯誤しているのだろう。

しかし、やはり、これは声高に言おう。

安易な「寂しさ」に縋るべきじゃない、と正しい「寂しさ」との向き合い方を考えるきっかけとなることを願って。

 

寂しさを飼い馴らせ!

 

以上をもって、この記事を締める。