現実と夢を取っ掛かりに考える。
4月はそこまで来ている。
新しい環境で、素晴らしい夢と、誇らしい自分をそれぞれの胸に抱き、始まりの1歩を踏み出す。
そんな若々しさを盾にできていた時期は遠に過ぎ、見慣れた環境で、萎んだ夢と、嘆かわしい自分を突き付けられて頭を抱き、その場に踞る。
そんな4月が、そこまで来ている。
春眠暁を覚えず、と有名な文句をぽけらと思い浮かべる。
何時までも寝て過ごすことが許されたら、と白昼に夢を見る。
森深くの穴蔵で眠り、季節は過ぎ去り、落ち葉が一重二重と幾重にも折り重なり、そのまま腐葉土になって身体の脂質がゆっくりと分解して骨になり、それでも気付かないくらいに深く眠るような、そんな夢を見る。
その夢は胡蝶の夢だと知っているが、現実でも夢でも寝てられるのなら、現実と夢の区別など不要だ。
しかし、現実と夢との境目をぼやかしてしまうと、自然と私の存在もぼやける。
何故なら、現実にある私の身体と、夢の中の精神の私の境目をなくすことを意味し、身体と精神の境目をなくすことに対しては、強く拒絶する。
そんなに簡単に身体と精神の境目を不定にできるなら、私の今までの思考は何だったのかと、私自身の人生を否定しなければならない。
身体と精神の境目をきっぱりと分けるために、現実と夢の区別は必要だ。
矛盾したことを言っているのは分かっている。
夢の中でも夢を見たいという私と、身体と精神を毅然と分け隔てたい私は、確かに私が私の中で願っていることだ。
なら、どちらも私だ、と言ってしまえば良いのではないか?
事実、どちらも願っているのだから、嘘は言っていない。
強固な身体と脆弱な精神は、現実と夢のような関係のように感じる。
強固故に現実は強く、脆弱故に夢は儚い。
時に無慈悲なまでの現実の強さから逃げたくなるのは、私だけだろうか?
吹けば飛ぶ夢は、脆弱な精神に潜む臆病な自意識の、現実に対するなけなしの抵抗ではないだろうか?
振り返り、嘘を見付けた。
私は矛盾していることは、言っていなかった。
ただ、私は現実と夢をどちらに重きを置いているか、それだけのことだった。
あえて、言い切る。
私は脆弱な精神と夢を矛と盾にして、現実から生き延びる。
見慣れた環境で、萎んだ夢と、嘆かわしい自分を突き付ける現実に、私は「見慣れた」、「萎んだ」、「嘆かわしい」脆弱さを武器にして、踞る。
現実に負けることは人生の凋落を意味し、故に弱いことは怖いことだ。
しかし、強いことは正しいか?と言えば、全くそんなことはない。
負け続ける人生を歩んだ私は、凋落した底の安寧もそれほど悪くないことを知っている。
それに、凋落の底でじっとしていると、時に「新しい」、「素晴らしい」、「誇らしい」出来事が起きることがある。
それは全く予期しない出来事なので、私の世界を驚天動地させる。
そして、驚きの余りパッチリと開いた目で見る世界は、胸がすく気持ちにさせる。
強固な現実も、案外、見方次第で変わるものだ、と毎度気付かせてくれる。
4月はそこまで来ている。
私は、晴れやかな空でも、真っ黒な穴蔵でも、眠れるなら何処でも良い。
そして、山だろうと、海だろうと、「私」を追求できれば何処でも良い。
新しい4月の前に、不屈の意志で私は踞ることを宣言する。