私の頭上の空は、何処までも灰色だ。
外に出れば、目に見えないくらい小さな雨粒が頬に当たる。
我が家の駐車所の出入り口に咲くツツジは、淡い薄桃色の花たちに黒と枯ら茶色が混ざり、汚い。
小雨模様と見切って、部屋に引き返し、蛍光灯の明かりを着ける。
暑くなり過ぎた晴れの陽気に、曇天の陰鬱さは丁度良い。
陽気さも時には鬱陶しいし、陰鬱さが心地よい時もある。
要は、バランスなのだ。
どちらか一方に偏るのでなく、どちらも保とうとする意識が必要なのだ。
しかし、保つことに注力し過ぎるのも、考えものだ。
最近、蝙蝠だな、と自分自身の発言を鑑みて感じる。
どちらの意見もよく聞けば、どちらにも理があり、その一方でどちらも情念に支配されているように見えることがある。
顕著なのは、政治の話題をしているときだろう。
例えば、右の人に言わせれば、韓国とは国交断絶すべきと主張する。
慰安婦像のモデルは、元は戦車に轢き殺された少女で「慰安婦」とは関係ない可能性があることを知ったときは、何とも言えない気持ちになった。
しかし、文在寅氏と金正恩氏の南北首脳会議の様子は、ある程度の希望を見出しても良い気はする。
逆に、左の人に言わせれば、安倍政権は即刻退陣すべきと主張する。
森友学園の文書改ざんは、隠蔽と受け止められても仕方なく、よもすれば、民主主義の根幹を揺るがし兼ねない出来事とは感じる。
しかし、嘘を吐けば偽証罪に問われる証人喚問で安倍首相と夫人は関係ない、と佐川宣寿前国税庁長官が明言したことは尊重されるべきだ。
私よりきっと頭の良い人たちが、どうしてこうも情念に支配されているのか不思議だ。
どちらも国を憂いて発言しているはずなのに、まるで噛み合ない。
どちらもお互いを馬鹿にするばかりで、話を聞こうとさえしない。
だから、どっち付かずの態度をずっとしているが、何れ、両方から嫌厭されることになる予感がする。
「お前は、一体、どっちの味方なんだい?」と、冷ややかな目で見られる、そんな未来が。
雨が降るなら振った方が良い、晴れるなら晴れた方が良い、どちらも良いじゃあ駄目なのか?
何かに偏る、一つの信念を持つ心構えが必要かもしれない。
そう、両方の肩を持つ行き着く先は、孤立して、誰からも相手にされないことだ。
しかし、何に偏れば良いのだろうか、それが問題だ。
気付けば、トタン屋根に雨が弾く音がする。
たたんたたんと、軽快に。
偶には雨が良い、雨が好きでも良い、そう言える人では在りたい。
たたんたたんと、軽快に、投稿する。