1.湯船に浸かってゆるりと考える。
銭湯で身体の垢を落とし、一頻り寛いだ。
ああ、休日だな、と心の垢も落ちる。
そうして過ごすと、色々な考えが浮かんでは沈んでいく。
ふと、私の将来について思いを廻らす。
私はこれからどう生きようか?
湯船から溢るる湯の音に身を任せる。
働かずに生きるのに必要な額がどうやら1年で大体300万円は必要らしい。
何もしなくても、国民年金や住民税を支払わなければならない。
それに生活費を足すと、1年で300〜400万円の計算になる、と幾つかのwebサイトを見て知る。
逆を言えば、1年で300万円がコンスタンスに手に入れば、働かずに済む。
月で言えば30万円、日で言えば1万円が手元に入れば良いのだ。
どうにか、月に30万円を手に入る方法はないだろうか?
やりたいことは、ある。
しかし、今の現状を維持するだけでも大変ではある。
かと言って、今のままは宙ぶらりんとしていて、何か違う。
何となく、今後の方針を決めてみる。
脳内で、こうしてみよう、ああしてみよう、とアイデアが浮かぶ。
しかし、そのアイデアに猜疑にまみれた私が顔を覗かせる。
過去を振り返れば、何かを成そうと活動をしてきたことは度々あった。
しかし、過去のすべての行いは、結句、何にも成らずに終わった。
今、思い浮かんだアイデアを実行しても、長続きしないかもしれない。
浅く広く見聞を集める私は、狭く深く知識を熟成させるのが苦手だ。
見切り発車でいつも動いて、いつも何処かで迷子になる。
2.意味のない記事を書き続けた。
しかし、猜疑の私に対して、今まで居なかった自信のある私が出てきた。
「でも、ブログは継続できている」
今まで全くと言って良いほど継続できていなかった私には、少なからず自信になる事実だ。
「継続する」と簡単にできる人は、正しい道を私よりずっと先まで歩いていることだろう。
そして、ずっと先まで歩いている人の方が、世の中の普通であろうことも。
同じ道を何遍も何遍も歩き、堂々巡りを繰り返す私には、普通は恐怖だ。
過去、やりたかったことは、結句、何も成らなかった。
私なりに頑張った、と言っても無能な私が間違った努力をしただけなので、何も成らないのは当然だ。
だけど、そうした積み重ねは、私を疲弊させ、困惑させ、絶望させた。
未だに、何が正しい努力で、どうすれば有能な振る舞いができるのか、分からない。
分からないが、何かを成し遂げたい気持ちだけは持ち続けていた。
嗚呼、その「何か」さえも、五里霧中だ。
ブログを始めた理由も、その場の勢いだ。
何の考えもなく、何となしに始めた。
そして、現実で私自身の不始末で、1度、毎日更新するのを止まり、1ヶ月ほど期間が空いた。
再度、更新する際に、拘ったのは、「毎日、更新すること」だ。
内容がどうあれ、更新する時間がどうあれ、兎に角、毎日、更新する。
アイデアがなかろうと、書く時間がなかろうと、一にも二にも毎日、更新する。
時に、300文字程度の記事になる時もあった。
時に、10分しか書かなかった時もあった。
誰も読まないそんな詰まらない記事を、しかし、「毎日、更新すること」だけは拘り続けた。
3.「継続する」ことの意味とは?
怠け者な私が、継続期間491日、馬鹿なまま継続した。
残り、9日で500日となる訳だが、果たして、この努力は間違っているだろうか?
時に10分しか書かない、内容もない、そんな記事が何になるのだろうか?
その答えは、「自信が持てる」ことだ、と私は考える。
10分しか書かなくても、それでも毎日、更新した。
継続することができた、その事実が、何も成し遂げられなかった私には。
あまりに小さなことだが、継続できた事実に、私は何かを成す勇気にする。
やり方が合っているかどうかは別にする、どうせ、私は間違える。
間違えても、「毎日、継続できた」私なら、多分大丈夫だ。
やりたいことがある。
取り敢えず、やってみようか。
まずは、1歩、歩き出さねば進まない。
何となく、タイトルも意味を持たせてみる。
何も成せずにいた過去の私から、何か成せているかもしれない未来の私へ。
ここが分水嶺、ではないが、気分はそんな感じで。
無意味な記事でも、継続すれば自信になる。
言いたいことは、タイトルがすべてだな、と感じ、考え、投稿する。