劇の稽古の前に演出の方がさらっと聞いてきた。
「みんなに聞きたいんだけど、何で生きているの?」
唐突で哲学的な導入に、ちょっとざわついた。
この前振りに、ちょっとこれは面倒なことになるかもな、と悟った。
お茶を濁して、当たり障りのないことを言えば事なきを得ただろう。
しかし、それは私の人格が許さなかった。
人知れず、にわかに緊張した。
「今はその理由を探している」、「楽しく生きるため」と他の人が答えていった。
演出の方と目が合った、何となく、姿勢を崩した。
「どうして、生きているの?」
「死ぬのが面倒だからです」
「え?じゃあ面倒じゃなかったら、死んでも良いの?」
「面倒じゃなかったら?はい、死んでも良いです」
「未練とかないの?」
「何て言うか…生きるのも面倒だけど、死ぬのも面倒だから、だったら生きよう、みたいな?」
「あなたの死生観は分かった。じゃあ、存在意義は?」
「存在意義、無いんじゃないですかね?無いと思います」
そこへ劇参加の最年少が「有るよ、だって脚本を書いてくれたから、劇ができたじゃない?」とフォローしてくれた。
私は「優しい!」と応じて、何となく流れた。
言わせたい訳ではないが、言ってくれて正直助かった。
次の人が「自分の信念のため」と答えた。
成る程ね、と聞いて、演出の方が「色々な考えがあるね、まあ、脚本があるから劇ができた訳だね」と締めの言葉を言った。
ここら辺だったら、もしかしたら、堪えられたかもしれない。
「自分の信念のため」と答えた人が、身体を私に向けて「脚本はあったから劇ができた、存在意義はあったんだよ」と言ってきた。
話の流れで振られてしまった、答えるしかない。
「でも、存在意義があったかどうかって言うのは、結果論ですよ」
「いや、存在意義があるよ!」
「存在意義があるものって振り返った時に言えることじゃないですかね?存在の意義は無いんだけど、そういう無いものが積み重なっていって、振り返った時に有る…」
「(被せるように)存在意義はあるよ!」
「無いと思うんですけどね…」
「(小声で)みんなはちゃんと必要とされているよ…」
ここで、主語が変わっていることに気付く。
私はずっと私主体で話していたが、相手はもっと大きい、人間という存在意義で話していた。
そうなると話が変わってくる。
「ああ…そうですね、そうかもしれませんね…」
私はその人を否定したかった訳ではない。
私は、私という人間を表出すると、そういう表現でしか言えないのだ。
「存在意義がある」と言うのであれば、それもそうだと言える。
これは主体の話なのだ。
何処に主体を置くのか、で変わる。
私という人格に主体とするなら、完全無欠に「存在意義は無い」と言う。
人間という概念を主体とするならば、人の数だけ答えがあるとする前提の元、「存在意義はある」と言う。
しかし、もっと言えば、言わずに我慢すれば良かったのかもしれない。
帰ってから、そのことを想像してみた。
「分かりませんね」とへらへらして答える自分を想像してみた。
やはり、どうしても受け付けなかった。
そう答えてしまったら、もやもやする。
この問いかけは嘘を言おうが、本当を言おうがもやもやする質問だ。
どちらにしても抱え込むなら、私は本当のことを言う。
私が感じた、考えた、私にとっての事実を言う。
嘘を言って握手するより、本音を言って殴り合った方がまだマシなのだ。
こんなんだから、人と上手く付き合えないのだ。
これで100%嘘を言ったことがないのか、と言えば、そんなこともない。
結句、自己中心のクソ野郎なのだ。
それでも、また顔を合わせる。
きっと、お互いに胸の内でもやもやとしながら。
向こうは気にせずに忘れていたら、と自分に都合の良い未来を希望する。
あなたは何故、生きているのだろうか?
答えを諦めずに探している人を、私は探している。