うっかり過ごして何時の間に9月27日を迎える。
当ブログを立ち上げたのは2016年9月3日だ。
心を亡くすと書いて「忙しい」とはよく言ったものだ。
徒然と日暮らし、3周年を遠に過ぎ、4年目を呆けた顔で歩いていた。
ピントがずれた毎日で、焦点を合わそうと四苦八苦して、この体たらくだ。
しかし、それほど落ち込んでもいない。
私の中でこのブログの位置付けが変わってきたのかもしれない。
3年と月日は流れているのだから、何かが変わっていても不思議ではない。
何が変わっているかは、私自身には分からない。
さて、この記事は延々と詰まらないことを書いていこう。
何故ならば、この記事で継続期間が1000日となる。
小狡いことをして稼いだ事実は闇に葬り、結果だけ見れば、何と尊い数字だろうか。
折角なので、延々と詰まらないことを宣おう。
記念記事、とでもいう記事を詰まらないことを書いて埋める。
全く以て私らしい、と自縄自縛の自画自賛をする。
折角なので、当ブログの指針に倣ったタイトルにしよう。
その方が良い、その方が良い。
パッと見で直ぐ分かる、良心に基づいた素晴らしいタイトルになるだろう。
この記事は詰まらないことを延々と書いている記事だ。
さてさて、以下、本文となる。
ゆるりと流し読み、斜め読みして頂きたい。
__________
目次
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1、「人が生きる」その存在意義とは?
人が生きる存在意義とは何だろうか?
最近の専らの興味だ。
とは言っても、それらしい答えは見付かっていない。
まずは言葉の意味から推察する必要があるだろう。
「意義」とは一体、どういう意味だろうか。
Google先生に泣きついて、問うてみた。
デジタル大辞泉
1 言葉によって表される意味・内容。「その語の本来の意義 」
2 その事柄にふさわしい価値。値うち。「意義 ある生活」
大辞林 第三版
① ある言葉によって表される内容。特に、その言葉に固有の内容・概念。 「言葉の形態と-」② 物事が他との関連において固有にもつ価値や重要性。 「 -のある仕事」 〔類義の語に「意味」があるが、「意味」は言語や行為によって示される内容、また物事が持つ価値をいう。それに対し、「意義」はある言葉が表す内容、また、物事が他の物との関係において持つ固有の重要な価値をいう〕精選版 日本国語大辞典〘名〙① 言葉などの表現によってあらわされる意味、内容。※日本詩史(1771)一「雖二造語不一レ合、意義自全」② 言葉、事柄、行為などが現実にもつ価値。ねうち。多く、重要なものをいうのに用いる。※哲学字彙(1881)「Import 意義、旨趣」※武蔵野(1898)〈国木田独歩〉七「首府が郊外と連接する処の趣味と共に無限の意義がある」
それぞれの辞書に書かれて気になる言葉に置き換えてみた。
「意義」とは「ふさわしい価値」である。
「意義」とは「言葉が表す内容、また、物事が他の物との関係において持つ固有の重要な価値」である。
「意義」とは「言葉、事柄、行為などが現実にもつ価値」である。
人が生きる存在意義とは、上記のことに更に当て嵌める。
人が生きる存在に値するにふさわしい価値とは何か。
人が生きる存在として他者(自分以外のすべて)との関係において、固有の重要な価値とは何か。
人が生きる存在としての言葉、事柄、行為などが現実にもつ価値とは何か。
こう言い換えると、人間に価値がそもそもあるのだろうか、という泥沼に嵌りそうになる。
プラスチックごみによる海洋汚染は度々ニュースになるし、アマゾンの森林火災も記憶に新しい。
人間に価値はあるのか、疑問だ。
こういうことを言うと「人は皆、必要とされている」と声高々に宣言する人がいる。
そして、私のような考えは悪性と見なされ、駆逐されていく。
仕方ない、人間社会を全うに機能されていこうとすれば、人間が必要ないというのは愚か者の言葉でしかないだろうから。
しかし、やはり考えなければならない。
私がこの世に生まれ落ちた、その存在意義とは何か?
故に、孤立無援になったとしても、私は考えるのを止めない。
話が脱線した。
「意義」について、それぞれの意味をもう少し深追いしてみる。
1-1、生きる存在に値するにふさわしい価値、とは何か?
以前、ニュース動画でとある国立公園の試みが投稿されていた。
野生のオオカミが途絶えた公園に、人工で育てたオオカミ数頭を放したというものだ。
鹿による食害が著しく、その抑制にというのが試みの事由だった。
最初は、オオカミはひっきりなしに鹿を食べていった。
それもそのはずで、人間のように「この数の鹿を食べれば、環境は良くなる」など考える訳ない。
頭数管理ができず、この試みは失敗か、と思われたそうだ。
「試みは失敗に思われた」という下りは煽りで真実ではないかもしれない。
動画は続いて「しかし、驚くべき事実が判明した」と続けた。
端的に言えば、荒れた土地が元の森林に戻っていった、というのだ。
ここまでは予測の範囲内であったろうが、更に続けて、河川の水量が安定してきた、というデータが出たらしい。
木々がしっかりと生えたために、土壌が蓄えられ、それが河川の深さに影響し、水量の安定に繋がったというのだ。
オオカミ数頭が元の美しい自然を取り戻したニュースは、中々に興味深かった。
ここで、副題を考える。
つまり、存在するにふさわしい価値、とはこういうことだろう。
オオカミは「環境を配慮した」などと考えていない。
ただ、「今を生きる」ことに全力を尽くしただけだ。
その結果、自然が回帰したのだから、正しく「存在するにふさわしい」と言えるのではなかろうか。
オオカミの存在は地球にとって、自然にとって、価値があった。
ここでそも、「価値がある」と判断するのは人間なのは留意したい。
オオカミは例えば、鹿がその国立公園の鹿をすべて食べ尽してしまったとしても、次の場所に移動するだけだ。
オオカミの行動に一喜一憂するのも、自然の荒廃や復活を願うのも、すべて人間だ。
人間が思い描く、人間にとって大きな意味での、価値があるかどうか。
この事実から目を逸らしてはいけない。
当たり前のことだが、忘れがちなことなので、あえて書いておく。
1-2、他者(自分以外のすべて)との関係において、固有の重要な価値とは何か。
うろ覚えで記憶する私だから、正しくは覚えていない。
ただ、確かFacebookの記事で、「条文は憲法よりも重要」とした旨の内容を読んだ。
補足があれば、後で付け加えるかもしれない。
憲法は、国の中で決めた、国の在り方としての約束文句だ。
条文は、国と国が交わした約束事だ。
条文の方が効力が上、とする理由は、国の在り方が変わっても有効とする点らしい。
政権が変わっても、条文の効力は失われない。
例え、前政権と思想が違っていても、条文は守らなければならない。
そうでなければ、国として認知されず、ただそこに住んでいる地域住人でしかなくなる。
100年、1000年と時間が経っても、条文の交わしたことは守る。
国として機能するには、他の国がその存在を認めることが重要、とその記事には書いてあった。
国際社会で発言を増すには、「条文を守る」ということは必要なのだろう。
ここで、「固有で重要な価値」とは何か、を考える。
その前にかかっている、「他者との関係において」が大事だろう。
即ち、「認識される」ことが重要なのだ。
同じ人間と認めるのは「言葉」が通じるからだ。
「言葉」は人間固有のものであり、それによって意思伝達ができる、人間にとって重要な価値がある。
これによって、お互いに認識できる。
人間同士の関係においては、「言葉」は価値あることだ。
さて、人間が生きる存在として考えるに、どの関係性が求められるのか?
他者の括弧書きに「自分以外のすべて」としたのは、人間以外の存在も加味したからだ。
国が成り立つのに「条文」を守ることが必須だ。
では、人間として成り立つのに、何かしら守るものがあるのだろうか?
約束とするならば、約束を破る人間は存在する意義はないのだろうか?
私は「「私」という自意識」にその意義を求めているのかもしれない。
他者との関わりと打っているのに、内面に求める辺り、空気が読めていない。
しかし、「認識される」ことは一つ考えるに良いかもしれない。
先のオオカミの事例にしても、自然が回帰してきたことを「認識」されたから、価値が見出せた訳だ。
認めて識る、何を以て意義として認識するか、それが肝要かもしれない。
1-3、言葉、事柄、行為などが現実にもつ価値とは何か。
さらっと流していたら、行き当たったブログがあった。
以下、引用だ。
(前略)
悲観主義とは、起きてしまった出来事や、まだ起きていない物事をマイナスの方へ考えること。
一方、楽観主義は物事を深刻に捉えず『なんとかなる』と考えること。
(中略)
楽観主義は『現実的に考えていない』『現実を見ていない』と思われがちですが、私からしてみたら真逆です。
現実に起こることを、受け入れる覚悟をするからこそ楽観主義になれます。
人生には、起きて欲しくないことが起こる可能性があります。
自分が気をつけていても、予防していても、起こるときには起きます。
自分が気をつけれることをして、予防できることをして、それでも起こってしまった場合。
それは、もう受け入れるしかありません。
安全運転をして、保険をかけていたとしても、赤信号で車が飛び出してきて事故に遭うかもしれません。
手洗いうがいをして、健康に気をつけていても、病気になる可能性は0ではありません。
自分ができることを全部したら、あとは自分ではどうしようもないことってたくさんあります。
その時のことを(そうなったら、どうしよう)と思っても、どうしようもないんです。
目の前の現実を受け入れて「だからこそ、できること」に目を向けるしかない。
私の思想に近しいものを感じたので、引用させて頂いた。
私は自分の事を厭世主義だと考えているが、同時に楽観的な捉え方をしている。
その楽観は「どう足掻いても嫌なことは起きるのだから、受け入れるしかない」という諦めだ。
良い意味で諦める、と私はいうが、「覚悟を持つ」というのもあるだろう。
受け入れるという着地点からの楽観に共感できる気がする。
とはいっても彼のブログと私と決定的に違う点がある。
彼のブログは、「やることやって、それでも起きること」という現実を受け入れる「覚悟」からの楽観だ。
私の場合は「やろうがやるまいが起きる時は起きる」という現実を受け入れる「諦め」からの楽観だ。
似て非なることだが、結果として「現実を受け入れる」ことが生き易くなる点は同じだと感じた。
更に「悲観主義な人を無理に楽観主義にしなくても良い」という点は大いに同意する。
悲観主義でも良いではないか。
むしろもっと悲観しよう、が私のスタイルだ。
では、「意義」について考えよう。
現実にもつ価値、私はまずこの「受け入れる」という姿勢が「意義」を見出すのに必要だと考える。
現実を見なければ、何を以て「意義」と判断するのか曖昧になるからだ。
発想、捉え方は彼のブログと私は異種であるが、「現実を受け入れる」点は同じだ。
彼のブログと私は何が違うのか、それは容易に答えられる。
それは、生き方の違いだ。
人は皆違う、この前提で考えれば間違えようがない。
彼のブログは「覚悟を持つ」生き方をしている。
私は「諦める」生き方をしている。
その結果が今だ。
人間が違うのであれば、生き方も違うのは当然の摂理だ。
生き方が違えば、生きる存在意義も違いが出る。
「現実にもつ意義」とは「現実を受け入れる」ことの直結する。
言葉、事柄、行為を受け入れるから、現実に意義が見出せる。
こう考えると、「言葉、事柄、行為」とは「生き方」と言えるのではないだろうか。
どう生きるか、それが明確にある人は「存在意義」があると宣言する。
成る程、私の中で妙に得心がいった。
「生き方」に価値を置くならば、人間の存在意義は難解になるのは必然だ。
人の数だけ生き方があるのだから、存在意義も人の数だけあることになるからだ。
現在の人口は約75億人いるらしい。
人の数、75億以上の存在意義を考えるのは、スーパーコンピューターくらいの処理能力でも足りるか分からない。
一先ず、ここで深追いを止める。
4-1、存在意義の問題はエゴだ。
今までのことのまとめると以下のようになる。
・人間にとって価値のあることがふさわしい価値である。
・関係性において、認識されることは重要だ。
・現実を受け入れるために生き方が明確にするのが必要だ。
ざっくりとまとめて、眺める。
この問題は、実にエゴに満ちている。
「人間にとって」、「認識される」、「現実を受け入れる」、どれもエゴだ。
自己中心から他者へ向けられるのか、自己の内面に向かっているのか。
何れにしても、存在意義を唱えるのに、心許ない。
普遍な思想に至るのに、私には何かが足りないように感じてならない。
オオカミのようにただ存在するだけで意義がある、と言える何かが人間にあるだろうか?
国のように関係性を示す固有で重要な価値が、人間自体に備わっているだろうか?
「やることをやったけれど、それでも起きること」に対して、人間の存在意義は試されていやしないだろうか?
結論が出ない。
私の生き方からの結論で言えば、「存在意義はない」となる。
しかし、人間の存在意義はないとするのはまだ早いのだろうか?
そう、「存在意義はある」とする人たちを納得させる、理論がないのだ。
これだけのデータがあって、「人間には存在意義はない」という訳ではない。
私の経験則、私の価値観による「人間には存在意義はない」という結論だ。
しかし、逆に「存在意義はある」とする人たちから納得する理屈はあるのだろうか?
人間社会を事由にするのは、人間の存在に立脚しているのか、疑問だ。
人間自体を事由にするのは、無条件の人間賛歌に聞こえて、どうにも納得できない。
それでも今の私が答えを出すのであれば、演劇ではないか、と考える。
演出の方に言われた、「舞台で生きろ」という言葉がきっかけだ。
2、「舞台で生きる」について。
苦しみ藻掻きながら稽古に励む私に「舞台で生きろ」と指導された。
「舞台で生きろ」と何度も言われた。
ただ台詞を追って動いている、だけでは駄目だ、という。
舞台上のキャラクターたちは、設定された世界で生きている訳だ。
それを役者が演じて表現するのだが、やりとりがやりとりにならなければならない。
相手がこう言ったから、次は自分はこう言う、というのは会話ではない。
その台詞がどうして出たのか、それはそのキャラクターがそれまで生きてきた中で培われて育った言葉が出たのだ。
そして、それは相手が何かを言う、若しくは相手に何かの反応を求めるから言うのだ。
その上で、相手に何かを言われたり、反応を求める中で、感情が動いているはずなのだ。
「舞台で生きろ」というのは、役者自身の言葉で話すのではなく、キャラクターの気持ちを代弁しなければならないのだ。
「生きる」とは「何かしらの役割を演じること」というのは何処ぞで聞きかじった言葉だが、さて、「舞台で生きる」とはどういうことだろうか?
私は以下の存在が関係してくるだろう、と考えた。
1つ、観客と演劇の関係。
2つ、相対する相手と自分との関係。
3つ、自分自身と演じるキャラクターとの関係。
順次、考えていきたい。
2-1、観客と演劇の関係。
別の演出の方に、「ハッキリと喋ること」、「しっかりと止まること」が重要であることを教えられた。
ハッキリ喋らないと、何を言っているのか分からないから。
しっかりと止まらないと、誰に言っているのか分からないから。
伝える、という観点から考えると喋ることと止まることの重要性は大きい。
その上でその方はこういうことを仰られた。
「舞台で何を言っているか分からない役者は、観客から消える」
言っている言葉が分からないから、他の役者の言葉から推察するようになる。
その結果、観客にはその役者は消える、存在しないことになる。
何を言っているか、伝わらないことの怖さである。
「舞台で生きる」とは、「伝える」ということだ。
伝わらなければ、存在がない、生きていないことになる。
演劇においては、如何に伝えていくかが重要で、それが生きる存在意義となる。
故に「ハッキリと喋る」、「しっかりと止まる」は意識しなければならないだろう。
2-2、相対する相手と自分の関係。
前述したが、相手との会話があるから、劇が成立するのだ。
もちろん、独白というものもなるが、基本は相手ありきだ。
そして、物語の中でその相手との関係は何かしらの築きがあるはずだ。
「相手の言葉を聞く」、「それに対して、どういう感情になったのか」それが大事だ。
即ち、「認識する」がここでは大事だ。
相手の存在を認め、自分の存在を訴える。
いや、ここで大事なのは、その物語に生きるキャラクターたちの存在を認識する。
そのための一挙一動だ。
故に「相手の言葉を聞く」、「それに対して、どういう感情になったのか」はしっかりと考えなければならない。
稽古を通して、それらが育まれ、培われていくのだろう。
時間経過と共に変わる感情を普遍の物語を通して紡がれる難しさと面白さ。
演劇は生もの、とはこういった点だろう。
絶対的普遍である物語と、相対的変動する感情、生きる存在意義の構造に似ている気がする。
現実という絶対的普遍と、生き方という相対的変動の構図と似ている。
気になるが今は保留して、次に進む。
2-3、自分自身と演じるキャラクターとの関係。
私の演じるキャラクターの心情は理解できる部分、分からない部分がある。
私自身、細かい演技ができないので、よく指導された。
「どうしてこの台詞が出てきたのか」、「どうしたらキャラクターの気持ちが伝えられるのか」、その背景を考えるよう言われた。
「感じ考える」、これが「舞台で生きろ」ということで最後のピースだろう。
どうしてそう考えたのか、どうしてそう感じたのか、考える。
自分が自分を演じる役割、演じるキャラクターの心情を考える。
役を演じるのに30倍は難しい、と言っていた人がいた。
演じるのに少なくとも30個くらいは考えなければ演じられないという。
30個もの動作、思考を連動させれるなら、それは天才だろう。
分からないから「感じ考える」、私は私の演じるキャラクターの気持ちを考える。
それが上手く伝わるかは分からない。
それでも考えることを止めはしない。
2-4、10月5日6日の本番に向けて。
「舞台で生きろ」とは以下の事だろう。
観客に「伝える」こと。
相手を「認識する」こと。
演じる役を「感じ考える」こと。
短い期間だが、大変に勉強になった。
如何に舞台で生きるか、それは如何に現実に生きるかのヒントになればいい。
虚構の世界の中に、真実を追い求める。
劇団に誘われたとき「絶対にこっち(演劇をする)側の人間だよ」と言われた。
こういう「追い求める」ことは私の性分で、誘った人の確かな眼力に舌を巻く。
虚構の世界の中に、私は「私」を追い求めている。
「役割を演じること」とは倫理で言えば「ペルソナ」を指すだろう。
演劇とはまた違った視点になるだろうが、生きる存在意義を考えるのに必要だろう。
まずは9月28日のゲネ、そして、10月5日6日の本番に役割を全うする。
今の私が思い描く、生きる存在意義の答えは、「舞台で生きること」だ。
それの正誤は、別に考えよう。
3、 蛇足。
話は変わって。
実は今、1万文字を目指して書いている。
この時点で8059文字だ。
上の3行の最後の句読点を含めて、8059文字だ。
ここから残り1941文字を打っていく訳だ。
書いていく、とも言える。
完全に蛇足ではあるが、ある意味で当記事の本文である。
詰まらないことを延々と書くのであれば、蛇足こそ本文でなければならない。
その前のは前菜やスープのようなものだ、メインデッシュではない。
1000日継続しても、やろうとしていることは変わりない。
私が私にとって興味があること、感じたことを書き連ねるだけだ。
3年前から変わらない、当ブログの指針だ。
3-1、マイブームは質問箱。
そう言えば、最近、質問箱に嵌っている。
マイブームだ。
Twitterと連動していて、匿名で質問が送られたり、送ったりできるものだ。
そこで、私はあるコミュニティに以下の質問を送った。
「友達以上恋人未満の相手に、ポテトチップスをあげるなら、「うすしお」か「のりしお」、どっち?」と。
完全にボケであるが、割と答えがわらわらと集まって面白い。
うすしおをあげる派は「自分が好きだから」、「海苔が付いて気まずくなるのは嫌」というもの。
のりしおをあげる派は「海苔が付いても好きなら告白したら?」、「海苔が歯に付いたのをからかおうぜ」というもの。
海苔の有無は意外と繊細な問題であることが分かった。
それから、「コンソメ」も第三勢力で台頭している。
具体して理由を述べているのはないが、「うすしお」か「のりしお」かを外してきたか、単純に「コンソメ」がポテトチップスとしてお勧めなのかのどちらかだろう。
私個人としては、その「コンソメ」は「カルビー」か「コイケヤ」、どっちなのか気になる。
3-2、サダ子さんへの決意。
そう言えば、サダ子さんとのデートを2回目をした。
場所は善光寺、長野駅から徒歩で行った。
もちろん、貞子のコスプレをして。
今回のデートも中々に楽しかった。
思ったより善光寺で撮りたい場所がなかったが、昼食で選んだカフェはまあまあ受けは良かった。
そして、どうやら次回以降も期待して良さそうだ。
その上で、私としては、「普通に手を繋ぐ」を次回に掲げなければならない。
「もちろん」とあるが、貞子コスプレが前提から外すのは今のところ難しい。
それが今の彼女と私の関係で、故にもう一歩踏み込むのには普通の格好の時に普通に手を繋ぎたい訳だ。
しかし、前回も今回も、普通の格好の時は繋げなかった。
何せいきなり繋いだら、事由がないのに気持ち悪くないか?
この関係を終わらせたくないがための、言い訳だ。
このことを知人らに話せば、「そこはガッと繋げよ!」と叱咤激励される。
貞子のコスプレで嫌がられていないのだから、普通の格好でも問題ない。
戯けてお願いするか、横断歩道のタイミングでさっと繋ぐか、何れにしても飛び込めと。
恋愛経験ほぼ0の私には、ぐぬぬ、と言わざる得ない。
ぐぬぬ、しか言えない。
故に次回は、「普通に手を繋ぐ」ことが目標だ。
次はお互いに10月は忙しいので、11月になりそうだ。
長野県内で、次を目指す。
因みに予定さえ合えば、遠出、しかも泊まりもアリ、とのお返事はある。
…何となく気が急いてしまうのは、私の悪癖の一つだ。
3-3、喉の渇きと腰の痛み。
そういえば、今日は予定があるのだった。
ちらっと時計を見れば、もう出かけないといけない。
しかし、残り僅かのこの記事、書き上げてからにしたい。
妙に今日は興が乗った。
タンタカタンとキーボードを淡々と打ち据えた。
喉の乾きが最高潮、腰の痛みは絶好調だ。
問答無用で言葉を紡ぎ、トンチンカンな文章を積む。
バラバラな意識を繋いで、わらわらとかき混ぜる。
こうして、そう、いつもの詰まらない記事の一丁上がり。
寄せては返す白波のような、砕けて散って、また砕けてく。
秋の枯れ葉の行く末のような、散って舞って、また散っていく。
詰まらない、詰まらない、詰まらないこの文章に拍手を。
人は見たいものを見たいように編集して、見る。
都合良く、良くも悪くも、変質させる。
そうして受け取ったものをまた手放して、もう一度。
1000日前の私と今の私は、違うだろう。
半年で人間の身体の細胞は完全に入れ替わる。
半年は366日の半分、183日で身体は別者になる。
そうか、1年で2回生まれ変わっている訳だ。
2016年9月3日から2019年9月27日までで、6回は別者になっている。
これから7回目の変身へと身体を作り替えている最中だ。
これだけの変貌をしているのに、およそ書いていることは変わらない。
いや、むしろ、2016年より固執しているだろう。
私は「私」の自意識の強度を増すことに、成功したのだろうか?
蛇足、そう、これも偉大な蛇足だ。
こうして私は、意味の為さない、そして今感じるすべてを残す。
今感じるこの喉の渇きも、腰の痛みも、半年後にはまた違う意味に成り果てているだろう。
4、おわりに。
1つは生きる存在意義を考えた。
2つは演劇についての思考も絡めた。
3つは詰まらないことを延々と書いた。
何れも私には大事で逼迫した問題だ。
これ以上はなく、これ以下もないほどに書いただろう。
ここが本当の蛇足だろう。
これからも詰まらないことを延々と書いていく。
気持ちを新たに、4年目をゆく。