自分の追求の一環として。
私は私が嫌いだ。
「私は私が嫌いだ」と言える私が好きだ。
「「私は私が嫌いだ」と言える私が好きだ」と言ってしまう私が嫌いだ。
と、ぐるぐると考えている状態を諦めているし、楽しんでいる。
と最近になって気付き、「好き」も「嫌い」も「同じ」だなと考えるようになった。
「好きな私」と「嫌いな私」も結句、「同じ私」であるという当たり前の些事だ。
基本的に私は私の愚劣な性根が嫌いだ。
普通になれないことに辟易しているし、変人であることに誇りも持てない。
私は薄っぺらい人間であることに嫌気が指している。
しかし、そうした薄っぺらい私がどうして薄っぺらいのかを追求する姿勢は良いと考えている。
「私」という自意識を追求するのに、「私が私である」ことを知覚しようとすることは楽しい。
故に「私」の自意識を追求する、「私は私が嫌いだ」と言い切れる私は好きなのだ。
だが、自分の内に留めていれば良いのに、それを不特定多数に向けて「こういう私が好き」と平気で言ってしまう私は気持ち悪い。
「私のことを知って欲しい」という欲求があるのだ、周りの人がどう受け取るかも分からないのに。
自分のことしか考えられない、周りと天秤にかけて自分優先にしてしまう、そういう私が嫌いだ。
嫌いと好きのスパイラルに陥っていくのはいつものことだと諦めている。
そうした性分なのだと、解決しないことにうじうじと思考する人間なのだと諦めている。
諦めることに関して、私は一流だ。
そして、ぐじぐじと思い悩むことを客観視して楽しんでいる私もいる。
ぐじぐじと悩むのが楽しい、というのもある。
楽しむことに関しても、私は一種の極みを得ている。
「好きも嫌いも楽しむ」という状態は「今を楽しむ」私の人生哲学を実践していることである。
それ即ち、「結句、根っこは同じ私なのだ」と気付きを得るに至る。
もぞもぞとこのことを誰かしらに言いたくなる、嫌いと好きの狭間に揺れながら。
先程、Twitterで呟いた。
「ナルシスト論」と旧知の人からコメントを頂いた。
そう言えば、私がナルシストなのかについて書いた記事があったな、と調べてみたら、思ったより関連記事が出た。
おおふ…自己追求を謳ってはいるが、中々に気持ち悪い結果だ。
自己追求とは、ある意味でナルシスト論なのかもしれない。
そうなると、今回のことはポストナルシスト論と位置付けられるかもしれない。
あえて言い切る。
ポストナルシシズムの一歩を私は踏み出す。
「好き」と「嫌い」も「同じ」なのだ。
「好き」と「嫌い」は私の感性が捉え、私の思考で組み立て、私がそう位置付けた。
つまり、根っこは私が決めたことであり、私が私の自由意志によって私は私を「嫌い」と言い、私は私を「好き」と言っている。
私の自由意志によって、私は私のことを嫌いであって良い。
「私は私のことを嫌い」と言っている私が好きであっても良い。
どちらも私の感性と思考の権利を保証されている現代において、私の意思は自由だ。
…こう考えると、現代社会の価値観に由来しているのかもしれない。
そうなると、時代の変化によっては意思が不自由になり、私が私であることを保証されないかもしれない。
現代社会を依り代にしていることが、ポストナルシシズムになった一因であることもここに記しておく。
考えが深まっていけば、その内、脱ナルシスト論に発展するだろうか?
そこはまた分からない。
何れにしても、一種の達観の域に至ったと自負している。
うじうじと、ぐじぐじと、これからも自己追求していこう、と私の自由意志によって決めている。
私はポストナルシス、そう宣言しておこう。
私は私が嫌いだが、そのままの私で突き進もう。