私の思考は相変わらず愚鈍だ。
ゆるりゆるり考えていく。
連続する無意識の思考は、僅かに確かに変わってきている。
学習とは変化すること、と学んだ。
今まで知らなかった自分から、知った自分へ。
そこから派生する、思考の変化は、やがて私の自意識を変え、昨日とは違う私になる。
そんなことをそぞろ考えて生きている。
最近は、「ある事柄はある事柄のままに理解すべきではないか」と考えている。
難しいことを難しいままに理解しようとすることが肝要ではないか、と。
そこら辺を書いた。
例えば、障碍について、「障碍は個性だ」と主張する人がいる。
障碍をその人が持っている特有のもので、素晴らしいものだというものだ。
障碍をポジティブに捉えようとする考え方だろう。
例えば、自殺について、「自殺は他殺だ」と主張する人がいる。
自殺へと追いやった人間や社会がある、そうした悪意や無関心で殺されたとするものだ。
自殺をする人が悪くない、と伝えたいのだろう。
これらの主張をする人は、実際に障碍を持っている人や、自殺未遂をした人たちの中にもいる。
前向きに考えよう、捉え直そうとしているのかもしれない。
そうした前向きな姿勢は、悪いことではない。
しかし、私はこれらの主張を手放しに賞賛できない。
別の言葉に置き換えてしまって、本質から遠ざけてしまっているように感じてしまうからだ。
むしろ、本質から遠ざけることで不安や焦りを誤摩化している人もいるのではないだろうか?
障碍に対して、「障碍は障碍だ」という人もいる。
障碍は生きている中で問題がある、生きる上でマイナスに働いているから障碍なのだ。
個性とレッテル貼って、実際のその人の人柄を見ていないのだ、と論ざれていた。
私は「障碍は個性だ」と考えていた人間だ。
その人の語る上で、その人の「一部」だ、と考えていた。
しかし、「障碍は障碍だ」の論を読んでから、確かにその通りだと感じた。
生活する上で不便なのだ、それを「個性」の言葉で片付けられたらたまったものではないだろう。
私自身、左耳がほぼ聞こえないが、もし聞こえるようになるならそうなった方が良い。
「障碍が個性なら、その個性が欲しいですか?」と聞けば、欲しいと言う人はいないのではないか。
「自殺は他殺だ」ではなく、「自殺は自殺だ」と考える。
最後の最後に死ぬことを決めたのは、他ならぬ自殺しようとする自分だからだ。
何かしらのきっかけで社会や人間はいるだろうが、その人たちは間接的要因であり、直接手をかけた訳ではない。
三浦春馬さん自殺した日に、テレビで城田優さんが泣きながら歌っている映像を見た。
近くにいる人さえ気付かない、自殺する人はこれだけ泣いてくれる人がいても自殺する。
私は城田優さんの涙を見て、他者の無力さを感じた。
「個性」や「他殺」はインパクトがあるが、本質からズレていく。
言葉を尽くすとき、例え話をするときに使うのであれば、良いのかもしれない。
しかし、「個性」や「他殺」は一側面でしかなく、「障碍」や「自殺」の根っこではない。
「障碍」は、生活するのに不便で厄介で、それでも付き合っていくしかないものだ。
「自殺」は、もうこれ以上生きれない、と意識無意識に自ら死へと向かうことだ。
障碍と付き合っていくから「個性」と転化することはあるだろうし、自殺の原因を考えたときに「他殺」とする思考の角度を変えることもあるだろうが、それは思考の深化の手段であり、根っこではない。
個性というには、その障碍に羨ましがる人はいない。
他殺というには、自殺した人の気持ちを本当に代弁していない。
難しいことは難しいままに、ある事柄はある事柄のままに理解すべきだ。
障碍は「障碍」であり、自殺は「自殺」だ。
私の思考は愚鈍だ。
察するのも下手だ。
しかし、本質は本質のままに、変容しないようにしたいと足掻く。
連続する無意識の思考は、僅かに確かに変化する。
明日、私の思考は旅立つだろう。
しかし、私の思考は、私の思考のままに、根っこは変わらないようにしたい。
あるがままに受け入れる、シンプルにして困難な、答えの一つを無意識の底へ仕舞う。