「いつものように。」、その一行だけ書かれていた。
一行だけ書かれていて、その先はなく、下書き保存されていた。
「迷い」と「決断」というお題目ありきの記事である。
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当時、私は何を書こうとしていたのか、定かではない。
「いつものように。」と書いているから、いつものことを書こうとしていたのかもしれない。
しかし、書けなかったのか、後で書こうとして忘れたのか、一行だけスッと置かれていただけであった。
数年越し、成仏させるつもりで書こう。
と言っても、然して大したことはない。
いつものように、だらだらと書き連ねるだけだ。
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目次
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1、ふんわりとした言葉の形状。
お題目としては、何かに迷い、決断する一連の流れがあることを聞き出したいのだろう。
しかし、このお題目は私には難しいようにも感じた。
私という人間は、常に迷っているか、直ぐに決断している、そのどちらかである。
「常に迷っているか、直ぐに決断している」という矛盾した状態が有り得るだろうか?と聞かれれば、確かに両極端な状態を両立しているのは矛盾しているかもしれない。
しかし、私のこれまでを人生を振り返ると、「迷い」というのも「決断した」というのもしっくりこない。
腕を組んで考えても、「常に迷っているか、直ぐに決断している」としか言えないのだ。
そこら辺を少しだけ掘り下げる。
掘り下げる、と言っても、私の感覚の話なのでふんわりすることになるだろう。
要領の得ない、雲を掴むような話なので、掘り下げるというよりかは、言葉という形状に整えるだけというのが正しいのかもしれない。
順次、書いていく。
2、常に迷っている。
私という人間は常に迷っている。
惑わされている、とも言える。
あっちに行って、こっちに行って、一体何をしたいのかさっぱりなのだ。
私は今までの学歴、職歴を鑑みても、あっちこっちまるで一貫性がない。
高等学校は農業高校へ行き、専門学校は広告デザインへ行き、卒業後はNPO法人の障碍児放課後支援事業に従事した。
その後3ヶ月ほどブラジルに行き、戻ってからはパソコンの総組み立てのライン工、神奈川県で道路と橋梁の点検業務、群馬県で下水道管理業務、戻ってなんやかんやあって、今の油揚げの工場勤めだ。
まるで何に成りたいのか、定まらずに動いている。
去年辺りからは演劇に足を突っ込んでるし、2年後辺りにには仕事を辞めるつもりだ。
人生に迷っている、自分がどこを進んでいるのか、全く分からない。
迷いのない人生だったら、もっとどこかで一本筋を通すのだろう。
しかし、私は恐らくこれからもあっちこっちブレにブレるだろう。
軸のない無私が私らしいと言えば私らしい。
別の観点から考える。
専門学校を卒業して、ある人とユニットを組み、活動していた。
しかし、活動をしている中で、決定的な溝が生まれ、決別した。
実は決別した後、再結成したのだが、その再結成も私の裏切りで途絶えてしまった。
今でも、迷っている。
自己弁護と罪悪感で死にそうになり、また声をかけるべきか迷っている。
すでに数年の月日が流れている。
今更、連絡を取っても、まともにやり取りもできないだろう。
そうしてしまったのは、他ならぬ私なのだが、それでも連絡を取るべきが迷いが消えない。
特記すべき事柄を上げたが、大体、私は過去の出来事を振り返って弄くり倒す。
すでに終わったことなのに、いつまでもうじうじとしている。
湿度80%は軽く越える、鬱陶しい迷いがある。
常に迷っている、それが私の本性だ。
3、直ぐに決断している。
私は物事を決める時は直ぐに決めている。
面白そう、で大体決めている。
行き当たりばったりの人生は、常にそうしたもので構成されている。
ブラジルに行った経緯は、宙ぶらりんとしていた私を心配した母が檀家をしているお寺の住職さんに相談していた。
その住職さんがブラジルにもお寺があって、そのお寺の住職さんが今、東京に来ているから会わないか?と持ちかけられたのだ。
その時、ほぼノータイムで「はい、会いたいです」と二つ返事をし、トントン拍子でブラジルに行ったのだ。
演劇をやり始めたのも、「稽古を観に来てよ」、「行きますか!」とノリで決めている。
即断である、脊髄反射と言っても良い。
後先考えずに、ほぼほぼその場で決めている。
嫌なことは嫌なことでやりたくない、と決断している。
私は決断する時は直ぐである。
むしろ、あれこれ考えてから決断することがなかった。
ISD個別診断では、何かを悩んだりするときは、私はサルだったはずだ。
その場で直ぐに決める、即決の気性があるらしい。
心理学の観点から見ても、私は直ぐに決断する人間なのだ。
直ぐに決断する事由は、私の中で基準があるからだ。
「今を楽しむ」、この哲学に基づいて行動指針を決めている。
だから、楽しそう、と感じれば迷う暇もないのだ。
直ぐに決断している、これも私の本性だ。
4、「迷い」と「決断」は繋がっていない。
ある出来事、事柄があり、その事に対して選択をしなければならず、「迷い」、そして、「決断」する。
通常は「迷い」と「決断」は一連の流れとしてセットで扱われるのだろう。
しかし、私の場合、「迷い」と「決断」をセットで考えると分からなくなる。
書いていて分かったが、私の場合、「迷い」と「決断」は別なのだ。
「迷い」はうだうだと考える、私の思考である。
「決断」は直ぐに行動する、私の姿勢である。
何かに迷う時、迷うことに全力であり、迷うことがすべてなので、「決断」する必要がない。
何かを決断する時、すでに自明のことであり、考える隙間がないので、「迷い」が存在し得ない。
私の内面、感覚として、「迷い」と「決断」は途切れている。
迷うときはひたすらに迷い、決断するときは直ぐに決断する。
言い換えれば、常に考えるし、直ぐに行動に移す指針がある。
何もおかしな点などなかった。
いつものように。
「迷い」と「決断」は繋がっていないのだ。
いつものように、これが私の本性だ。
5、いつものように。
「いつものように。」、その一行だけ書かれていた。
一行だけ書かれていて、その先はなく、下書き保存されていた。
「迷い」と「決断」というお題目ありきの当記事もこれで終わりだ。
当時、私は何を書こうとしていたのか、定かではない。
定かではないが、現在の私のこの帰結は当時の私の感じていたことのようにも感じる。
一行だけスッと置かれていただけであった、ここに私の「迷い」と「決断」があったのだ。
数年越し、成仏させるつもりで書いた。
やはり、然して大したことはない。
いつものように。
常に迷っているか、直ぐに決断しているだけの人生だ。