自分らしさを取っ掛かりに考えた。
自分らしくいるとはどういうことか。
「らしい」という曖昧なのに妙に明確な言葉に惑わされる。
一体、自分らしくいるとは、どういうことだろうか?
自分らしいとは、何を以て自分と定義しているか。
他者とは違う、自分らしいことがあると考えているのか。
どういう状態が「らしい」のか?
行住坐臥、という四字熟語がある。
歩き、止まり、座り、臥す、日常の振る舞いを差す言葉だ。
自分らしい振る舞い、と考えてみるとどうなるだろうか?
自分らしく歩く。
自分らしく止まる。
自分らしく座る。
自分らしく臥す。
日常の振る舞いに自分らしさを求めると、難解になる。
普段、歩くときに自分らしく歩こうとは考えていないし、止まるときに自分らしく止まろうとも考えていない。
同様に座るときや臥すときも、意識的に自分らしく座ったり臥そうとしていない。
自分の日常を俯瞰して見ていないから、自分らしい行住坐臥など分からない。
どういう行動をしているのか、意識して動いていない。
「らしさ」とは無意識に、表層に滲み出るものなのだろうか?
他人から「らしくないよ」と言われることがある。
しかし、何を以て「らしくない」と断じているのだろうか?
他人が観測した、表出された「らしさ」と私の感じている「らしさ」の齟齬がある。
ただ、他人から「らしくない」と言われれば、そうかもしれないと感じることもある。
他人が観測したものと私の「らしさ」が一致する。
一致したときは、私らしい、自分らしいものと外れていく感覚があるから納得できるのだ。
付き合いにも様々な付き合いがあり、その枠組みの中で見せる顔がある。
枠組みの中で見せる顔、振る舞いに「らしさ」が出ているのだろう。
しかし、その枠組みの中で見せる顔の捉え方は個々人で違う。
「らしい」、「らしくない」というのは、いつも見ている顔との差である。
他人は朝から晩まで一緒にいない。
他人から見る「らしい」は、一側面に過ぎない。
故に一致するときもあるし、齟齬もあるのは当然なのだ。
一側面でしかない顔の捉え方が個々人によってまちまちになるのだから、自分と他人の認識がズレるのは極自然なことだ。
大雑把な他人の認識との差は、気にしなくても良いかもしれない。
ファッションは「自分らしい」というものが分かり易い事例かもしれない。
どういう服を好んで着るのか、選んでいる。
自分を表現するのに好んで着る服がある。
ジャージ、ゴスロリ、着物、ジャケット等、様々な種類の服がある。
何を着るのか、着ないのか、選んでいるのは自分だ。
成りたい自分に成ろうとするのは、「らしい」なのか?
他人から「あなたらしくない」と言われて、好きな服を着ないのは「自分らしい」と言えるのだろうか?
歩くとき、止まるとき、座るとき、臥すとき、どういう格好を選んでいるだろうか?
すべてを結び付けて、ふと、私は考え至る。
歩くとき、私はどの道を進むか決めている。
止まるとき、私は山や空を仰ぎ見ている。
座るとき、私はじっと自分の内を覗いている。
臥すとき、私は浅い眠りに時間を磨り潰す。
服にしろ、道にしろ、私は選んでいる。
一つ一つが折り重なって、私が積み上っていく。
今の私は私自身が選択した結果だ。
「自分らしい」というものは曖昧なものだ。
しかし、「自分らしくいる」ことならば、選べば良い。
右足から踏み出すのか。
アクセサリーを身に着けるのか。
朝食は白米なのか。
今の仕事は何時まで続けるのか。
どういう風に死にたいのか。
人生をどう定義するのか。
小さいことから大きいことまで、自分で選んでいく。
選んだものの収集物、コレクションで自分になる。
どの選択も自分が選べば「自分らしい」のだ。
自分らしくいるために、取捨選択は自分でする。
誰が何と言おうと、自分で選ぶ。
誰が何と言おうと、自分は選ばない。
そうした取捨選択が「自分らしい」を構築し、取捨選択し続けることで「自分らしい」姿形でいられ続けられるのだ。
私が私らしいと言える多くは、私が選び続けた結果だ。
今の私は自己形成してから、選択してきた結果だ。
何を取り、何を捨てたか、そうして「私」ができた。
「今を楽しむ」は私らしい結論だろう。
「ネガティブ方向にポジティブ」も私らしい。
「私」の自意識の追求も私らしい。
自分らしくいるとは、結句、そう在りたい、と願う姿形になることだ。
今、自分がどういう「自分」に成りたいのか。
そのために、何を選び、何を取り、何を捨てるのか。
ただただ強固に自分はこうだ、と言い切る。
曖昧なのに妙に明確なのは、自分がそう選んだから、という見えない意思がそうさせているからだろう。
「自分らしい」と自分が決めた、それが「自分らしい」の根本だろう。
今日も私は自分らしく、自分を形作っていく。