「世に蔓延るイジメってどうやったら無くせるか」
難問である、難しい問いと書いて、難問である。
少し、本腰を入れて答えてみよう。
私は、イジメとは構造上と本能の問題だと考える。
構造上とは、狭い空間に様々な人を拘束する構造を指す。
さかなクンさんがイジメについて述べている。
(前略)
たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。
せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。
けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。
すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。
助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。
いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。
同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
人間のイジメもまず、様々な人間を一緒くたに同じ空間に入れる。
学校であれば、30人が1つの部屋に押し込まれるのだ。
本来、関わることのない人間と交わる訳だ。
考え方、性格など思わぬ発見や素敵な出会いもある。
しかし、好きになれない人、面倒な人も同じ部屋に入る。
イジメの温床は「物理的な近距離に人が長時間いる」ことから始まるのではなかろうか?
また、ヒエラルキーの形成もイジメに関係してくるだろう。
「どちらが上で、どちらが下か」、単純に先生と生徒、上司と部下という立場上の役職や、顔の美醜、性格の良し悪しなど、一緒くたにした括りの中で何となくある力関係が働く。
人間社会を維持するためには、誰もが何かしらの役割分担があり、その役割においての指示系統を形成する上で、ヒエラルキーも形成せざる得ない。
そうして、こうした構造の中で、本能が働く。
前述した「どちらが上で、どちらが下か」は正しく獣の論理だろう。
映画「シャッターアイランド」に登場する保安官が「人間の本質は暴力」、と言っていたのを思い出す。
理屈ではなく、「何か嫌」という感覚的な理由から、排除が始まる。
もしくは、「退屈だから」という刹那的なことから、戯れとして行われる。
私も青虫を食べさせられたが、「何か面白そうだから」という理由だっただけだろう。
この問題の難しいところは、誰と誰が相性が良いのか、悪いのか、分からないという点だ。
漫画「ハガネの女」で唾を擦り付けていた男子が登場するが、唾を擦り付けていたのには理由があり、イジメではなかった。
別の漫画「ギャングース」内のルポ記事に「殴ったあとに家族で外食に行く」という殴る事自体がコミュニケーションになっている人もいることが書かれていた。
昨今では、「あだ名は禁止、「さん」付けで呼ぼう」とするのをTwitterで見かけた。
私が中学のとき、ある人のあだ名を呼ぶのを止めるよう先生から注意されたが、当人は逆に「あだ名で呼んで欲しい」と言って一悶着あった。
周りがイジメに見えても、イジメではないのだ。
逆に表面的には良い関係性であったとしても、イジメとなる場合がある。
SNS上のイジメはその最たるものだろう。
一昔前ならSNS上では匿名性故の「本音が言える」環境だったが、現在、横の繋がりに使われているため、履歴が残るために「本音が言えない」と言ったことが起きている。
ちょっとした発言からいつの間にか槍玉に上げられて、イジメになる場合がある。
悪意とは目に見えないものだ。
そして、できればそうした悪意には関わりたくないものだ。
先生の黙秘は、自分を守るための行動と考えることができる。
質問に戻ろう。
「世に蔓延るイジメは無くせるか」
答えは、ノーだろう。
現代の問題ではなく、有史以前からずっとあった問題だ。
そう易々とイジメが根絶することはない。
しかし、時代は令和だ。
イジメとは前時代的なものだ、と考えても良いかもしれない。
イジメを根絶するのは不可能でも、イジメを衰退させることは可能だろう。
具体的に言えば、「コミュニティの選択」がポイントだろう。
自分がどこに所属するか、その選択を自らする。
即ち、狭い空間からの脱却だ。
しかし、すでに試されている感があり、失敗している気もする。
例えば一部インフルエンサーの構造は、搾取する側とされる側になっている。
当該質問とは別種かもしれないが、私に言わせれば「自己責任」と放ってしまうのは、「イジメられる側にも問題がある」論とどう違うのだろうか?
「自己責任」もその通りだし、「イジメられる側にも問題がある」のも一理ある。
しかし、それを言って良いのは、「自己責任」を負う側であり、イジメられていた側である。
他者が、ましてやインフルエンサーやいじめっ子から発せられる言葉ではないだろう。
同時に、私は深く憂慮する。
イジメられる側のことは考えられるのに、イジメる側のことは蔑ろにされていないだろうか?
漫画「ここは今から倫理です。」で「イジメる側も救いたい」と主人公は言っていて、ああ、その通りだな、と私は感じた。
イジメる側にはイジメる側の理屈がある。
その理屈の裏側まできちんと踏み込める人がいるだろうか?
相手の内面に踏み込むのは、私は蛮行だと考える。
これは本能だろう。
ならば、その本能と折り合いを付けるべきだろう。
即ち、「どっちが上で、どっちが下か」の多面化だ。
相手を下に見るからイジメが起きる。
相手を敬う部分が見えれば、イジメにならないはずだ。
「あの面ではアイツは駄目駄目だが、この面では中々やりおる」と認めることだ。
相手を尊重するためには、自分を「より良い人間」へと向かっていくしかない。
イジメられる人は何か得意なものを、イジメる人は自分の短所を知る。
その「より良い人間像」も人それぞれ違うだろう。
そこで改めて、「コミュニティの選択」が入る。
即ち「自分が相手を尊重することができるコミュニティを形成する」ことがイジメ衰退に繋がるだろう。
極一部の「人間を辞めた」人種も居るが、それこそ例外だろう。
「人間」でいようとすれば、様々なことがある。
人間社会を構造に「より良い人間」へと向かうための仕組み作りを考える。
私は、SNSは数多の人間の情報が集まるので、このコミュニティの形成如何では「より良い人間」へのヒントがあるのではないかと期待している。
ただ、それが具体するとなると、また難しい。
何を以て、「より良い人間」かは先述した通り、人それぞれだから、その前提基準が決めるのが容易くないし、決めない方が良いとする論も当然あるだろう。
しかし、これは1対1、1つのコミュニティだから齟齬が出るのだ。
世界は広い、そんな当たり前のことにまず立脚する。
イジメられる人もイジメる人も、複数のコミュニティを持っている。
家族、学校、会社、趣味、サークル、など、複数の中で様々なペルソナを被っている。
そう、複数のコミュニティならば、どれか「対等」になれる相手がいるはずだ。
そして、それは今のコミュニティに固執しなくても、どこかにそうした「対等」に接してくれる人がいるはずなのだ。
回答としては適していないと考えるが、以下を私の答えとしたい。
イジメを無くすには、「対等」になれるコミュニティを見付ける。
できれば、上記の答えに複数と入れたいが、まずは「自分を尊重してくれる相手」探しが重要だろう。
うつ病であったり、傷を隠す人であったりした場合、視野を広げて行動しろとするこの結論は受け付けないかもしれない。
しかし、行動に移せる人間も居る、誰かと「対等」になるためにコミュニティを形成する、そういう人が。
早くイジメを前時代の遺物にしたい。