時間の空白ができた。
頼まれ事の一応の段落が着き、特段急ぎの用もない。
明日の午後まで、暇である。
折角の自由な時間だ、大いに無駄遣いしよう。
先程までは英気を養った。
気力は十分、無駄にかける情熱は頭一つ抜けている自負がある。
取りを直さず、私は私のやりたいことをしよう。
即ち、だらだらしよう。
そういうことで、この記事は、ぐだぐだのぐずぐずになることをここに記す。
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目次
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1、特に意味もなく。
さて、何から書こうか?
邪魔な枝を切り落として、幹だけ残す、そんな本質に迫るようなことをしようか?
欠伸が出た、やはり、適度に適当に、思い付くままに書いていく。
ブログの書き方やら、まとめ方やら、何やら忘れている。
最近は3行でとっとと切り替えてしまって、長文を書いていない。
いや、長文は書いているか、方向性が違うだけで。
読み辛いこと請け合いのそんな記事になるだろう。
薄っぺらさにかけては天下一品、サイヤ人でも勝てる。
このペラさは私の性格のものなのか、私の特性のものなのか、気になるような、いや、どうでも良いか。
2、天才の定義。
最近、気になっていることがある。
私は人に「天才だ」と言われることが度々ある。
素直に受け取れば、褒め言葉以外の何物でもないのだが、私自身はもにょる。
私を「天才だ」と讃えてくれた方は複数人いる。
それも、同じグループ内の内輪でいうのとは違い、割とそこかしこで言われる。
たまたま出会った人に言われたこともあれば、それなりの付き合いの人に言われたこともある。
『お互いに関わりのない2人以上の人間に、同じことを言われたら、それは真実だ』
漫画「宇宙兄弟」の上記の台詞は、私の考え方に多大に貢献している。
お互いに関わりのない2人以上の人間に、「天才」と言われているので、私は「天才」なのだろう。
果たして、どういったことが「天才」なのだろうか?
「天才」について書いたような気がしたので、当ブログの検索窓で「天才」と打ってみた。
すると、およそ2年前に以下の記事を書いていた。
1%のひらめきの真意、そこら辺に「天才」の本質がある。
と、自分の記事を人事のように読む。
1%のひらめきのための99%の努力は、今もしていない。
また、次の記事にも、「天才」について書いている。
仕事の観点からの「天才」とは、「創造する」ことらしい。
何かを作ること、それが天才とのこと。
上記記事にも書いているが、この書籍における分類上でも私はどちらかと言えば「天才」になる。
上記の2つの「天才」の記載について、結び付ける。
1つ、1%のひらめきがあること。
2つ、創造すること。
即ち、天才とは「0から1を作ること」が定義としてあるのだろう。
「前例がない」とも言えるのかもしれない。
確かに、「天才」と言われる人たちは、「0から1を作ること」をしている気がする。
しかし、本当の「0」から何かを作るのは無理なのは承知している。
何かしらの土台、基盤があって、はじめて「0」スタートなのだ。
この何かしらの土台、基盤は「小数点の世界」だろう。
今、思い付いたことをつらつらと書いているが、意外と的を得ているように感じる。
「90」の記事にも「99%の努力」がひらめきに必要とある。
書籍の方でも、仕事のして求められる能力としてあり、人間誰しもが天才と成り得ると書いていた。
「天才」とは、「小数点の世界」を築けるかどうかにかかっているのではないか?
そして、「小数点の世界」に気付けるかどうかにかかっているのではないか?
構築と発見、それっぽいキーワードが出てきた。
「天才」について、一家言が言えそうだ。
しかし、やはり、もにょる。
私は天から授かったこの才を、何も活かせていない気がする。
それとも、何も活かせずとも「天才」は「天才」なのだろうか?
人の役に立たずに終わる、そんな人生で本当に良いのか?
「天才」と褒め称される度に、申し訳なさが先立つ。
いかんいかん、負の側面にダイブしてしまう。
うっかり窒息してしまうところであった。
危ない、理論の構築を考えよう、そうしよう。
とは言え、「小数点の世界」についての考察は、そこそこ時間が取られそう。
興味は出てきたし、「私」の追求に一役買うだろうから、「天才」についてはまた後日改めて考えることにする。
良いキーワードを飛び出て、私は満足だ。
3、2000円企画の途中経過。
2000円企画を集計してみた。
私自作のチラシに書いてもらった「2000円分の楽しいこと」をファイルに綴じたのだ。
40人はやっただろうな、とせっせと透明なセルファイルに用紙を入れた。
最初期はただ漠然と聞いていたので、紙がないのもある。
また、私がうっかりなくしてしまったのもある。
思い出せる範囲でそれらも計上した。
結果、70人の人が参加していた。
「2000円分の楽しいことを教えて下さい」の企画に70人が参加した。
大事なことなので、大文字にして表記する。
1人2000円なので、70人だと14万円が私の手元から旅立った訳だ。
移動費、交遊費も含めると20万円は使ったのかもしれない。
それでも貯蓄は微増しているので、長期的に見て、それほどの出費でもなかったのだろう。
今年中に達成も有り得る、そんな所まで来た。
こんなハイペースは予想していなかった。
一区切りを着けた後、別の企画を考えたい。
別の企画…何が良いだろうか?
「2000円分の楽しいことを教えてください」を基に何かを考えるべきか?
それとも、全く新しい企画を考えるべきか?
そうだな、私を行動させる理由付けができれば良い。
何でも良い、明日を夢見て眠れるなら、何でも良い。
今、一番の懸念が何なのか、その解決を目指そうか。
私の人生哲学の指針はできた。
今を楽しむ、それに拘る。
んん、割と順調に人生を消化していて、私は満足だ。
4、やはり、意味もなく。
適度に適当に書いていたら、そろそろ締めなければならない時間になってきた。
さて、どう締めようか。
まだ、少し時間があるから、ちらちらと時計を見ながら考える。
オチがないのに定評があるので、このままずるずると書いてしまっても良いと言えば良い。
どうにも、オチを書く、と言うのは私には困難なようだ。
NP困難な問題を証明するくらい、困難だ。
強いて、強いて言えば、そこそこ長く書けた。
本当に最近は、短く済ませていた。
ぐだぐだではあるが、2000文字以上書けたのは、良かったように感じる。
また1万文字に挑戦したい。
あれは中々にエキサイティングで、書いてて楽しい。
1万文字の記事を目指すと、ある程度の構成力も必要になる。
言葉は足りない私は、足りない言葉を書き散らして補おうとする。
ここを読む人と声を掛ける人は別なのだから、足りない分が補われることはないのは承知している。
そう、ただの自己満足、私のライフワークだ。
文字を打っても、脳には影響は少ないらしい。
文字はペンで書いてこそ、脳には良いらしい。
私のペラさは、こうしただらだらとした打ち損じ故の脳の構造からだろうか?
終わり頃に、謎の理論が出てきた。
脳の構造が私の性格や特性に影響をあると言うのか?
いや、やはり、どうでも良いか。
そうだ、タイトルをまだ書いていない。
何を書いて、この記事の墓標としようか?
ああ、そうだな、この言葉が今の私だろう。
だらだらと過ごせて、私は満足だ。
ここら辺で締めようか。
締める言葉も特にないが。
これで良い、これが良い、私は満足しているのだから。
特段、急ぎのない中でたらたらとぽつぽつと書いた、打ち損じの言葉たちは、電子の世界に解き放たれて、私の手元から旅立つ。
さらば、私の言葉よ、また何処かで会いましょう。
一先ず、ここで区切る。