演劇を生で観ることは大事なのだろうか?
よくある録画録音で十分ではないのだろうか?
演劇に関わる前は映像でも良い派であったが、最近は生と映像では得るものが違うと考えるようになった。
確かに、演劇は動画配信で観ることが出来る。
自分の好きな時間に、自分のタイミングで、視聴できる。
気に入らなければ途中で止めれば良いし、気に入ればもう一度観れる。
ただ、録画録音は自分の隙間時間に埋めるためのツールである場合が多い。
画面に目や耳を傾けているが、その実、体感としては「自分のリラックできる部屋」であり、「演劇をしている現場」ではない。
この差異は結構大きい。
例えば、動画を視聴している最中に、隣の人と会話しても動画は問題ない。
隣の人と会話しても、動画は何の影響もないからだ。
それはある意味で演者と観劇者の断絶を意味している。
先の例で言えば、意味合いが違うのだ。
視聴している時はコミュニケーションツールとして動画がある。
お茶の間のテレビで流されるバラエティ番組を家族と観るのは、家族と反応込みの人もいるのではなかろうか?
対して、生の場合は、呼吸をするのも慎重になる。
事前にトイレに行くのも、途中の離席が影響してしまうからだ。
演者と観劇者が共有する空間、それが演劇の醍醐味だと感じる。
演劇に限らず、生で観たい、聞きたいというものは、それそのものを楽しみたい、という欲求ではないだろうか?
直接、この目で、この耳で、この肌で感じるすべてを体感する、それが楽しいのかもしれない。
体感する、という原初的、動物的な側面が生で観ることに直結しているように感じる。
VRのようなフルダイブするのも、体感することに重きを置いている。
空間に自分の身体を置く、そのことに意味がある。
自身が体感した経験がその人自身の内面に多かれ少なかれ影響する、人生が変わるかもしれないのだ。
空間の共有、体感による経験、そういう一期一会の瞬間が良い。
私の「今を楽しむ」にも合致している。
そうか、だから私は演劇を楽しめるのだな、と言語化して気付いた。
今はまだ厳しい現状だが、生で観劇することは常に頭の片隅に置いておこう。
その場、その瞬間の体感を、届けたい故に。
などと言ってみる。