よくよく考えてみると、20も何か書きたいことがある訳がない。
いや、毎日書いていれば、その日の某はあるかもしれない。
しかし、まとめて書こうとすると、中々に難しい。
何でまとめて書くと難しいのだろうか?
毎日書くのも難しく、悩むのは同じだ。
しかし、1日1記事だと、どうにかそれっぽい言葉を置いていけば良い。
まとめて、一度に書こうとすると、違う内容にしなければならない気がする。
それとも全く同じ内容を書いても存外に良かったりするだろうか…?
しかし、それだと「書く」ことの本意からズレてしまわないだろうか?
コピー&ペーストで済むならこんなに楽なことはない。
毎日、同じ文章をコピーして、ペーストすれば良い。
ちょっと語尾を変えたり、順序を変えたりすれば、記事としては書いている。
しかし、そこに「考える」という要素はすっかり抜け落ちてしまう。
「書く」とは「考える」こととセットではないだろうか?
何かしら「考える」から、「書く」という動作になるのではないか?
何かを喋る時に、毎日同じ台詞を使えば、思考は節約するだろう。
毎日、「おはようございます」、「よろしくお願いします」、「お疲れ様でした」だけ言えば事足りる一日もあるだろう。
しかし、そうしたコピー&ペーストした毎日はどこか味気ないのではなかろうか?
いや、毎日の感情は違うのだから、同じ言葉、同じ文章でも、違うのかもしれない。
しかし、毎日同じでは、感情も均一化していくような気がする。
感情の均一化は、人間の思考も鈍らせ、生きているのか死んでいるのかも分からないものになりそうな気がする。
楽をするだけなら、同じことを繰り返せば良い。
しかし、思考を鈍らせ、感情を平坦にしてまで得たいものとは私にあるのだろうか?
こういう考え自体、ズレている可能性はあるだろうか?
ぐずらぐずらと記事を汚していく。
何とも形容し難い難しさがある。
私は「書く」ことで「人間らしさ」を保っているのかもしれない。
大変に大儀だが、20そこら、考えておこう。
同じ毎日でも違う毎日を、愚鈍な思考と緩やかな感情を持て余しながら書く。
コピーするのも、ペーストするのも、その時々の私の思考を大事にしたい。