ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

1351(過去の記事漁り7)

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

「文学」とは何であろうか?

文章を書き殴り、書き散らし、書き投げて。

文章を書くことはできるけれど、「文学」となるとまるで分からない。

 

試しに当ブログの検索窓で「文学」と打ち込んでみた。

すると、4年前に下記の記事を書いていた。 

 

www.negativehoukou.jp

 

書くことがないをテーマに書いた記事だ。

「書くことがない」事象を俯瞰してネタにしている。

実に詰まらない、当ブログに相応しい記事だ。

 

書くことは感度と技術の問題、という提示だと読み解く。

自分で書いた記事だが、自分自身が覚えているかと言えばそんなことはない。

読んでいて、よくあれこれ書いているな、と妙に感心してしまう。

 

感度、感性については度々書いている気がする。

日常について私の感性が反応するかどうか。

4年前から私は、己の感性のみで書いているのだろう。

 

記事の終盤にはこう書いている。

 

技術の問題、のような気もする。

「書く」と言う行為を煮詰めるべきなのかね?

しかし、どう煮詰めるの?

イチゴを煮詰めればジャムになるけど?

「書くこと」を煮詰めたら何になるの?

これは文学の先達に聞いた方が早いでしょうね…

 

 

ここで「文学」という文字が出てきた。

「書くこと」の行為を煮詰める、か。

今時分、私は書くことを煮詰められているだろうか?

 

イチゴを煮詰めるのに砂糖とペクチンがあれば、美味しいジャムになる。

イチゴジャムに倣うなら、煮詰めるのは行為ではなく中身だろう。

つまり、「書くこと」を煮詰めるでなはく「言葉」を煮詰めるのだろう。

 

どういう言葉を選ぶか、その選び方が文学になるのかもしれない。

それは意味のある単語であり、単語の連なりが文章になるだろう。

書くという行為自体が煮詰める行為と似ているのかもしれない。

 

もっと濃くできる、という感覚があるのかもしれない。

言葉を煮詰めるには、砂糖の代わりに知識が、ペクチンの代わりに経験が必要だろう。

イチゴの中にはペクチンが含まれている、という意味でも言葉には経験が含まれていくものだろう。

 

ジャムを煮詰めるには、鍋でじっくりと煮込む訳だ。

言葉を煮詰めるには、アウトプットする紙やテキストファイルに該当するだろうか?

言葉を煮詰める、とは推敲するのと同じだろう。

 

推敲の故事がそのまま意味を成す。

扉を「推して開く」のと「敲いて開く」のは、どちらが良いか、で考えていた。

ギイ、と静かに開くとの、ドンドンドン、と静寂を破る劇的さでは意味が変わるから、よく考えないといけない。

 

言葉の煮詰める作業は、表現したい世界があって、それを最も適した形に収めていく作業なのかもしれない。

書き殴り、書き散らし、書き投げて。

やはり「文学」はまるで分からないが、文章を書いていく先にそうした良き表現があるのではないか、と期待はしている。

 

さて、何を書こうかね?