はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」
「文学」とは何であろうか?
文章を書き殴り、書き散らし、書き投げて。
文章を書くことはできるけれど、「文学」となるとまるで分からない。
試しに当ブログの検索窓で「文学」と打ち込んでみた。
すると、4年前に下記の記事を書いていた。
書くことがないをテーマに書いた記事だ。
「書くことがない」事象を俯瞰してネタにしている。
実に詰まらない、当ブログに相応しい記事だ。
書くことは感度と技術の問題、という提示だと読み解く。
自分で書いた記事だが、自分自身が覚えているかと言えばそんなことはない。
読んでいて、よくあれこれ書いているな、と妙に感心してしまう。
感度、感性については度々書いている気がする。
日常について私の感性が反応するかどうか。
4年前から私は、己の感性のみで書いているのだろう。
記事の終盤にはこう書いている。
技術の問題、のような気もする。
「書く」と言う行為を煮詰めるべきなのかね?
しかし、どう煮詰めるの?
イチゴを煮詰めればジャムになるけど?
「書くこと」を煮詰めたら何になるの?
これは文学の先達に聞いた方が早いでしょうね…
ここで「文学」という文字が出てきた。
「書くこと」の行為を煮詰める、か。
今時分、私は書くことを煮詰められているだろうか?
イチゴを煮詰めるのに砂糖とペクチンがあれば、美味しいジャムになる。
イチゴジャムに倣うなら、煮詰めるのは行為ではなく中身だろう。
つまり、「書くこと」を煮詰めるでなはく「言葉」を煮詰めるのだろう。
どういう言葉を選ぶか、その選び方が文学になるのかもしれない。
それは意味のある単語であり、単語の連なりが文章になるだろう。
書くという行為自体が煮詰める行為と似ているのかもしれない。
もっと濃くできる、という感覚があるのかもしれない。
言葉を煮詰めるには、砂糖の代わりに知識が、ペクチンの代わりに経験が必要だろう。
イチゴの中にはペクチンが含まれている、という意味でも言葉には経験が含まれていくものだろう。
ジャムを煮詰めるには、鍋でじっくりと煮込む訳だ。
言葉を煮詰めるには、アウトプットする紙やテキストファイルに該当するだろうか?
言葉を煮詰める、とは推敲するのと同じだろう。
推敲の故事がそのまま意味を成す。
扉を「推して開く」のと「敲いて開く」のは、どちらが良いか、で考えていた。
ギイ、と静かに開くとの、ドンドンドン、と静寂を破る劇的さでは意味が変わるから、よく考えないといけない。
言葉の煮詰める作業は、表現したい世界があって、それを最も適した形に収めていく作業なのかもしれない。
書き殴り、書き散らし、書き投げて。
やはり「文学」はまるで分からないが、文章を書いていく先にそうした良き表現があるのではないか、と期待はしている。
さて、何を書こうかね?