ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

1000

詰まらない記事を延々と書いてきた。

誰に読ませるつもりもなく、誰かのために書いてもなく。

ただ、詰まらない記事を延々と書き連ねてきた。

 

同じ文言を何度も使った。

使い古されたボロ雑巾で長い長い廊下を綺麗にするように、同じ文言を何度も使った。

詰まらない、ただただ私のために書き連ねた。

 

1000記事、意味のない数字が連なった。

一つの通過点でしかないが、一時、この節目を迎えられたことに安堵する。

1000記事、「意味のない数字」と銘打ったカテゴリーに1000記事、延々と書いた墓標がある。

 

振り返って、読み返すことはあるだろうか?

そんな詰まらないことを考える。

捨て置いて、書き捨てて、嗚呼、過去へ過去へと追いやられていくのを黙って見送る。

 

詰まらないことを延々と書いて1000記事である。

折角なので、この記事の文章はいつもより文字数を多く書き連ねよう。

詰まらないことを、延々と。

 

1000記事という記念に。

1000記事という始まりに。

詰まらないことを、何度も書き連ねていこう。

 

 

__________

目次

__________


f:id:uenokoeda:20200608085921j:image

 

1、ノリと勢いと惰性と。

 

「ネガティブ方向にポジティブ!」の立ち上げたのは、2016年9月だ。

そこから紆余曲折が少しだけあって、現在2020年5月に至る。

3年と半年以上、詰まらないことを延々と書いている。

 

書き始めた当初は、ノリと勢いだけだった。

何も考えていない、ただただ始めただけである。

そして、惰性で書き続けて、その惰性に拘って、ずるずると続けている。

 

書き始めた時から、今の私は考え方も変わっていることだろう。

しかし、今の今まで「継続する」ことだけに拘り続けて、書くことの面白さは放棄してきた。

これからも面白い文章を書こうとは微塵も考えていない。

 

私の、私による、私のためだけのブログである。

最早、ブログと名乗るのも恥ずかしい。

辺境のこの地の片隅でぽちぽちと書いた言葉の羅列を無意味に世界中へ公開しているモノである。

 

言葉を大事にしていないのだろうか?

そのことで厳しく叱られたことがある。

詰まらない文章、誰にも読まれなくても良い、というのが日本語を大事にしていないと捉えられた。

 

そうなのだろうか?

ただただ、私自身のための文章だ。

私自身を大事にしたくない私は、きっと文章も大事にできないのかもしれない。

 

それで良いのではないのだろうか?

私のための文章なのだから。

ノリと勢いから始まり、惰性で今を書いている。

 

むしろ、ノリと勢いと惰性以外の要素は私には不要なのだ。

それ以外の要素は、私に書くことを妨げることに繋がるのだ。

ひたすらにノリと勢いと惰性、これが私の才能なのだ、と言い切ってしまおう。


f:id:uenokoeda:20200608090142j:image

 

2、億万長者か、ホームレスか、それ以外か。

 

2020年5月をもって、33歳となった。

今の仕事を辞めるのは、遅くても35歳の年には辞める。

早ければ34歳で辞めるつもりでいるので、下手したら1年後には無職になるかもしれない。

 

ノリと勢いと惰性が私の才能と先程定めたが、不安がない、と言えば嘘になる。

しかし、その不安自体も楽しむ要因でもあるので、ギャンブル気質な面もあるのかもしれない。

私の人生、行き当たりばったりだ。

 

当面、問題は貯蓄である。

思いの外、出費がかさんで、予定していた額より大幅に下回っている。

原因は分かり切っているが、改善しようとも考えていない。

 

そうなると、ある程度の修正は余儀なくされる。

今の仕事を辞めた後、アルバイトを少しするべきなのかもしれない。

中古物件を買うのは既定路線ではあるが、辞める時に果たしてどの程度になるのか、今から計算した方が良いのかもしれない。

 

それから、アイルランドに行くのも既定路線だ。
むしろ、アイルランド行きが優先されている感がある。

多少の英語スキルを身に着けた方が良いのだろうか?

 

中古物件を買うのも、アイルランドに行くのも、すべてノリと勢いだ。

私の中で決定事項になっていて、変えようと動かすつもりもない。

きっと私の生き方は、ノリと勢いと惰性に支配されているに違いない。

 

演劇をやり始めたのも、飲みイベントに参加して、やってみようという誘いに乗ったからだ。

今の仕事も、条件を気にせずに適当に選んだ結果だ。

その場その場で生きている、薄っぺらいなと自嘲しながら生きている。

 

しかし、それで良いのかもしれない。

もしかしたら、私は長期的な人生設計は向いてないのかもしれない。

「今を楽しむ」、ただただこの一点に収斂されていくのが私なのかもしれない。

 

過去を振り返らず、未来を見通さず、ただただ今この一瞬を楽しむ。

凝縮されたその一瞬、ノリと勢いで楽しむ。

そして、そうした生き方を、日常を惰性して消費する。

 

努力とはまた違うだろう。

現状より向上しようとするのとも、現状に踏み止まろうとも違う。

上も下もにない、ただただ今に私を置く。

 

億万長者にも、ホームレスにも成れないかもしれない。

逆に億万長者にも、ホームレスにも成れるかもしれない。

行く先は分からないが、この一瞬の私の感性にすべてを委ねようと考える。

 

33歳、私の未来は億万長者か、ホームレスか、それ以外だろう。

未来は今の地続き、選択の連続性にあるのならば。

当たり前の答えのその裏側の深みが少しだけ増したと感じる。



f:id:uenokoeda:20200608090142j:image

3、迷子だろうが、気にせず書く。

 

何のために私は文章を書いているのだろうか?

私の書いた文章がお金になれば良いな、とはほんの僅かばかり考える。

しかし、ノリと勢いと惰性でしかない私の文章に価値はあるのだろうか?

 

文章は文字の羅列でしかなく、文字情報でしかない。

誰かの人生を動かすことも、救うこともできはしない。

誰かが何かの行動に移すきっかけだとしても、それはその人の中ですでに行動に移すだけの準備ができていただけで、偶然きっかけになっただけに過ぎない。

 

何か意図して書いているならば、まだ言い逃れもできるだろう。

しかし、ノリと勢いと惰性である私の文章は、意図さえ全くない。

極論で言えば、読まれることも放棄している文章なのだ。

 

厳密に言えば、読まれることも完全に放棄している訳ではない。

しかし、書き手である私が私のためにしか書いていない上に、読まれなくても良いと意識下で思考している事実がある。

私にとって価値はあるが、他者にとっては何の価値もない。

 

その私にとっての価値も、私自身の意識無意識の掘り起こしに焦点が当てられている。

何となく書き始め、書き進め、何となくまとめる。

書いている内に、私自身の発見があるから書いている。

 

しかし、最近、以前より書くことが下手になったように感じる。

抽出される言葉が私の言葉とは違う気がするし、以前より言葉が出てこなくなった。

私にとって、書くことの価値が安くなったのかもしれない。

 

私にとって書くことの価値が安くなったのであれば、文章としての価値は益々損なわれていく。

駄文の体さえ、行き過ぎているのかもしれない。

それでも私は何かしら言葉を紡いでいこうとする、何故だろうか?

 

迷子、になっているのかもしれない。

迷いながら、今も書いている。

それで良いのかもしれない、詰まらないことと投げ打って、私は私の文章を書く。

 

何のために私は文章を書いているのだろうか?

何かが生まれる期待を、私は私自身にかけているのかもしれない。

前述した、未来を見通せないので、価値を考えるのは無益であることに今更気付く。

 

何のためかは分からないが、私は好きで文章を書いている。

それで良い、と考え直す。

私はただただ文章を書き散らすだけで良い。


f:id:uenokoeda:20200608090142j:image

 

4、無気力、後回し、開き直り。

 

最近、脚本を書けていない。

大変に宜しくない。

大変に宜しくないが、書けない。

 

スランプ、とは違う気がする。

単純に気持ちの問題な気がする。

今までの惰性が打ち切られてしまった。

 

私の才能がノリと勢いと惰性と位置付けた。

私の才能の長所は、瞬発力があって、最初の出だしの思い切りの良さである。

私の才能の短所は、途切れると魔が差すところだ。

 

ノリに乗る、乗らないは気分の問題である。

さっとノリが来ればどんな大波でも乗りこなせるが、一度途切れれば、何時までも波間で浮かんでいる。

タイミングがあっても、乗れない時は乗れない。

 

出だしの思い切りの良さをそのままに勢いで行動している。

しかし、普段の私は布団から幾千もの触手に絡め取られて身動きできない。

見切り発車する時の勢いは、目の前にニンジンをぶら下げた馬のように、楽しいことが見出せないと勢い出ない。

 

惰性があれば継続する、事実このブログは惰性によって成り立っている。

最初の勢いに乗って、スーッと過ごすのが私だ。

反面、ぶっつり途切れたら、次へ向かうためのエネルギーが倍増する気がする。

 

どれも私のやる気のなさが問題だ。

ただひたすらに天上の染みを数えて1日を終えてしまうような、やる気の無さだ。

どうしようもない程の無気力が、私の悪癖だ。

 

私の根っこには無気力がどっかとこびり付いている。

強アルカリ洗剤でも決して落ちないくらい、ガッツリと無気力が根深くある。

生涯この無気力と付き合って行かなければならないだろう。

 

私の悪癖ではあるが、私の基盤の転化もしている。

即ち、諦念とネガティブ思考讃美である。

更にこの延長線上に「今を生きる」、「「私」の自意識を追求する。」ことに繋がる。

 

私の悪癖には違いないが、反面、私の哲学の基盤への転化になっている。

自分自身と向き合った結果だ。

故に悪癖ではあるが、私は受け入れている。

 

脚本を書けていないのは、自分自身と向き合うのを疎かにしているのかもしれない。

私の悪癖の一つ、後回しも発揮されている。

後で後でと後回しにして、埃が山に成ってもやらないままにする。

 

私の楽観的な物の見方も良くないのかもしれない。

開き直って、どうにでもなる、と考えている。

実際にどうにでもなるが、どうにでもなるのは行動してからで、不実行の時点ではただの口だけ野郎だ。

 

自分自身と向き合わなければならない。

無気力な私と、後回しにする私と、不誠実な開き直りをする私と掘り下げなければならない。

私の内なる悪の反芻、私の哲学の根源はここにある。

 

兎角、脚本は少しでも書いていこう。

幸い、最近は少し、時間的余裕ができてきた。

向き合うのも、掘り下げるのも都合が良い。

 

そうすれば、ノリと勢いと惰性できっと書けるようになる。

心配はない、今まで通りだ。

ある意味で、必要な停滞だった、とまた開き直っている私だ。


f:id:uenokoeda:20200608090142j:image

 

5、自分に酔いながら、排泄行為を繰り返す。

 

ここまで書き進めて、何を言いたいのか、全くまとまっていない。

無駄に長文なだけで、無意味な言葉があっちこっちに散らばっている。

まるで泥酔した酔っぱらいのような体たらくだ。

 

誓ってここまで一滴も酒類を飲んでいない。

にも拘らず、焦点が定まらない文章になっている。

これは読むのも苦痛だろう。

 

読み手のことを考えるのであれば、もう少し筋の通ったことを書かなければならない。

ヤマもオチも意味もなく、筋もなければ、付き合い切れない。

ぐだぐだと管を巻くのを傍目から見ても面倒にしか感じないだろう。

 

とは言え、居酒屋で延々と無益な話をするのは私は結構好きだ。

友人同士の明日には忘れてしまうような取り留めの無い長電話も好きだ。

止め処なく時間が過ぎ去って、その空間に酔い痴れている。

 

書くことで酔っているのかもしれない。

自己愛を拗らせたナルシシズムを抱えているのが私だ。

適当に適当なことを思い付いた端から書いて酔っているに違いない。

 

文章にすることは排泄行為なのかもしれない。

自分の内から外へ出すことは、一種の快感を伴う。

吐瀉物、とは違うだろうが、似たようなものかもしれない。

 

酒は何で飲むのか、それは酔うためという人もいる。

文章を何故書くのか、同じ理屈が通るかもしれない。

いつもの日常から少し離脱して、辛いことを一時的に吐き出して、いつもの日常に戻るのに近しいのかもしれない。

 

自分の思考を分解して、再構築するのに文章は役に立つ。

分解するのが肝臓のようなもので、再構築するのは尿のようなものだろう。

花を摘んだり、鹿を撃ったり、そうして水に流してしまえばスッキリするというものだ。

 

だらだらとご高説を諳んじて、気分良く歌でも謳う。

酒臭い息を吐きながら、赤ら顔でにんまり笑う。

嗚呼、ヤマもオチも意味もない、筋の通らない文章は素晴らしい。


f:id:uenokoeda:20200608090142j:image

 

6、そして、また同じ繰り言を。

 

詰まらない記事を延々と書いてきた。

誰に読ませるつもりもなく、誰かのために書いてもなく。

ただ、詰まらない記事を延々と書き連ねてきた。

 

同じ文言を何度も使った。

使い古されたボロ雑巾で長い長い廊下を綺麗にするように、同じ文言を何度も使った。

詰まらない、ただただ私のために書き連ねた。

 

一先ず、それなりに書いたから満足する。

振り返れば、やはり詰まらない文章だ。

延々と詰まらないことを書いた。

 

初志貫徹してきて、1000の無意味な数字が連なる。

本当に延々と詰まらない記事を書いてきた。

記念すべき「1000」の名に相応しい意味のない記事となった。

 

次は1001、また粛々と書いていく。

これからも私の、私による、私のための文章を書く。

同じ繰り言を、何度も反芻しよう。

 

詰まらないことを延々と書く、それだけだ。