今現時点で私の納得している演技について書く。
どうして一人芝居クソ野郎になってしまうのか?
「間」や自然に見える演技と会話することの違いをまとめてみる。
私は「一人芝居クソ野郎」と揶揄されていた。
多数がいる場面で、一人で芝居を先走ってしまっているように見えてしまう。
原因は何であるか、四苦八苦していた。
最近まで私は「間」の取り方をしっかりすれば自然に見えるのではないか、と考えていた。
しかし、相手との「間」を取れても自然な演技とは違うのではないか、と指摘されていた。
その違いを私は感覚の違い程度に考えていた。
しかし即興のワークショップを通して私は私の居方を体感した。
去年の即興ワークショップでは言葉として居方を知っていた。
この居方について考えが深まった。
相手から言葉をそのまま言葉で返すのと、きちんと受け止めるのでは私の中で明確に違いがあった。
言葉を言葉のまま連想すると頭の中で答えていたが、連想する間を作ると私の場合は映像が浮かんだ。
その言葉の中には連想できないもの、引っ掛けるものも当然あった。
聞くというのはきちんと連想する、引っ掛けりがあれば気付くことだった。
そして、私はきちんと聞くことができることが分かった。
私が「5倍速」になるのは「道化」としての私のパターンで、「道化を演じる」ことが私の人関係の立ち振る舞いの1つであることも分かった。
「演じる」、「嘘を吐く」のも日常の中で使うパターンで、そのパターンの使い方次第だった。
どういう居方をするか、が重要で私の中であるもの、私が使うパターンから役作りや相手との関係を構築するから本当になる。
インプロのように物語を作るのも楽しいが、自分の中に無いものを引っ張ってくると自分の中にないから嘘になり、嘘を嘘で語ることになってしまう。
即興はよりシンプルに自分自身を土台、出発点にすることが大事なのだ。
シアターTRIBEさんでは「舞台に生きる」と言っていた。
アルプス乙女ユニオンズさんでは「役という着ぐるみを着る」と表現していた。
この根本は同じ、自分の中に有るものを使うという居方なのだと感じる。
では、何故私は一人芝居クソ野郎になっていたのか?
それは連想と引っ掛かりの省略にあるだろう。
稽古をすると最初は自分の役の気持ちがどう動くのか連想したり引っ掛かる。
それは私の中に有るもの、無いものがその都度出る。
しかし、稽古を重ねていくと意識無意識に引っ掛かりは無くなってしまう。
そして、当然そういうものとして連想するのを省略してしまうのだ。
稽古を積めば積むほど、理解が深まる。
それは「間」の取り方や自然に見える演技をする上では必要の理解だ。
ただ、相手の言い方のニュアンスが変わったり、シーンのディテールが深くなれば連想も変わるのだ。
そして、ニュアンスやディテールが変われば、引っ掛かりがあるかもしれない。
本番では観客や場所からの連想や引っ掛かりもある。
丁寧に想起する、相手の台詞をきちんと受け止める、私を出発点にする居方は物語を本当にする。
ぴかぴか芝居塾18期生の発表会『劇中夢』での一人芝居では「100点だ」と言われた。
一人芝居は上手い、と言われたこともある。
振り返ると、一人で芝居をするときはその都度自分の中で想起して、言葉を紡げていた。
ピカデリーショートミュージアムで『リナリア』で「会話しているように見えなかった」と感想を頂いた。
私は自分自身で紅さんに自分の中で完結する想起の仕方をしていた。
紅さんの台詞から連想をしておらず、自分自身の想起のみで関わっていた。
展開が分かっているために次の自分の台詞だけを思い出して、言葉のみで繋いでいこうとするから上滑りするのだろう。
台詞を覚えるより、台詞を言う相手から想起して、自分の中の引き出しから自分の居方を探る方が大事なのだ。
物語を言葉で繋げるのではなく、物語を一人一人想起することが芝居なのかもしれない。
技術でいう「間」を空ける、詰めることや、感情表現は演出目線なのだ。
役者として、もっと大きく言えば舞台に立つということは、自分自身を出発点にしてどうやって「舞台に立つ」のか想起することからなのだろう。
相手に聞くことの姿勢は私の居方をとことん突き詰めていけば、自ずと定まってきて相手の言いたいことを受け止められるようになる、のかもしれない。
1年前より納得が深まってはいる。
しかし、何度も聞く台詞をその都度連想や引っ掛かるために私はどういう居方をすれば良いのかは手探りだ。
幸い、役者として出演できる機会があるから、今回得た感覚を元にトライしてみたい。
備忘録として記録する、2023年4月13日にて。