「死にたい」と言いながらエクレアを頬張る。
「今の無し無し」と打ち消しの言葉を吐いて指を舐める。
私の言った言葉はどれほどの真剣味や切実さがあるのだろうか?
まつもと演劇祭でOrgofAさんの『異邦人の庭』を観た。
題材が込み入っているが、「死ぬ権利」が物語の根幹にある。
死にたい人を死なせる、殺人を冒した人間の仇をとる、そうした「死ぬ権利」は誰しもが持っている。
作中、「死ぬことを考えたことがないでしょ?」の問いかけに「はい」と答えたシーンがあった。
そんな人間がいるのか、と驚いた。
人間一度や二度、死にたくなるものだと考えてた。
しかし、健康で正常な人間ならば、「死にたい」と考えることはないのかもしれない。
「死にたい」と考えることもない人生とは、どんな人生なのだろうか?
「死にたい」と呟くことなく生きれる方が普通なのだろうか?
最近、仕事の合間に雑談で権利の話題が出た。
今の学校は権利しか教えない、権利には義務を果たさなければならない。
国歌斉唱で歌わない先生は権利を主張するが、先生としての義務から逸脱していることに気付かないのと同じだ。
日本国に三大義務として「教育の義務」、「勤労の義務」、「納税の義務」がある。
教育を受け、仕事をして、国に税を納める義務が日本国にある。
これは人権、日本国民としての権利があるから、上記の義務が発生している。
「死にたい」と呟かない人はこれら義務を全うできる人だろう。
普通に教育を受け、普通に仕事に行き、普通に税を納められる人だ。
少なくとも生きることに苦労しないのかもしれない。
順風満帆になんの邪魔もなく人生を謳歌できる人は追い詰められるようなこともない。
いや、傍目では明るく前向きに見える人でもその心根は切迫しているかもしれない。
「死ぬ権利」を行使できるなら私は行使したい。
そう言いながら、今もこうして死なずにここまできた。
私は本気ではないのか?
『異邦人の庭』では「死にたい、と思っても死ぬのが怖いと感じる」と言っていたのは共感した。
痛みや苦しみから逃れたいのに、物理的に痛みや苦しみを受けなければならない。
怖い、と感じるのも死んで消えてしまいたい、と願うのも矛盾していない。
人間誰しもそうした自身の死を考えるものではないだろうか?
口の中のクリームがしつこく残る。
クリームの油分はそろそろ受け付けなくなるのかもしれない。
「死にたいな」、ともう一度呟いて「今も無し無し」と惰性で打ち消した。