ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

「朝」は朝であり、朝でしかない。

世界の見え方を取っ掛かりに考える。

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以前、「美しい、綺麗な」文章を私が書いていると、幾人かに言われたことを記事にした(下記リンク参照)。

uenokoeda.hatenablog.com

 

それらのやり取りの中で、私自身が、どう世界を捉えて、見ているのか?の視点については考えていなかった。

言葉の受け取り方については、考察したことがある(下記リンク参照、再び)。

uenokoeda.hatenablog.com

 

ここでは、言葉を発する前、大まかな印象を共有する前の、物事の捉え方や世界の見え方について軽く考察したい。

 

まず、「朝」を迎えた、というシュミレーションで考える。

外は晴れていて、遠く険しい山々の岩肌や、細長く流れる雲、声高に走るカブに、冷たくひりついて鼻を赤くする空気が、戸を開けた瞬間に、私に「朝」であることを実感させる。

顔を上げれば、空は晴れ晴れとしていて気持ちが良いのだが、この「気持ちの良い」は私の主観だ。

その日の感情によって、朝が快活になるか、憂鬱になるかは違うだろう。

 

普通の人は、「朝」は朝以外は有り得ないのだろうか?

つまり、他に考える、感じる余地はないのか?という疑問だ。

「朝」は朝なのだから、それ以外に何があるのか?と言えば、特にない。

ただ、時に、「ああ、だから朝なのだな」、「この朝は何か予感めいているな」と感じることはないのだろうか?

私も「朝」は朝でしかないのだが、時に、朝について考えを巡らすことはある。

書いていて気付いたが、普通の人は、何を食べるか、何時に出かけるか、諸々の予定について考えるのであって、「朝」そのものについて考えるなど、暇な人しかしないか。

設問から間違えた、「朝」は朝でしかないのは、当たり前だ。

 

しかし、どうも私は、物事を直截して見ていないだろうか?

つまり、物事をそのままに捉えようとしている、のではないだろうか?

「確からしいこと」を書こう、という私の実感を元に思考している。

「朝」を題材にしたのも、私の実感からであって、他の人の実感ではない。

他の人の「朝」について、思考している訳ではないのだ。

 

云々と考えていたら、Facebookで面白い記事を見付けた。

物事をどのように考えているのかを、ある2つの仕草から判別できる、らしい。

物は試しでやってみた。

 

>>>

「物事をどのように考えるのか?」

両手を指と指を交差するように組む。

この時、どちらの親指が下になっているか。

左親指が下か?

右親指が下か?

 

次に、自分の腕を絡めるように組む。

この時、どちらの腕が下になっているか。

左腕が下か?

右腕が下か?

①左親指が下、左腕が下。

ささ脳

論理的にとらえ、論理的に処理。

物事を筋立てて真面目に考えるタイプ。

几帳面で努力家。

 

②右親指が下、左腕が下。

うさ脳

直感でとらえ、論理的に処理。

完璧主義。

自分で決めたい。

個性派。

 

③左親指が下、右腕が下。

さう脳

論理的にとらえ、感覚的に処理。

理想と現実のギャップに苦しむ自己矛盾型。

転じて、細かいことは気にしないタイプ。

 

④右親指が下、右腕が下。

うう脳

直感的にとらえ、感覚的に処理。

楽天的でマイペース。

直感とひらめき重視な感覚人間タイプ。

 >>>

 

実際に指を組んだり、腕を組んで、自分がどのタイプか探るのも一興かもしれない。

さて、私は3番の「さう脳」タイプだった。

つまり、「論理的にとらえ、感覚的に処理」する、とのこと。

…んん?どういうことだ?

まず、これは、言葉の定義をきちんと把握する所から…とこういう所が論理的なのか?

そして、その定義から、私の実感に即して言葉にしている、成る程、感覚的に処理している。

 

つまり、「論理的にとらえ」とは、「確からしいこと」を定義しようとすることだ。

「感覚的に処理」とは、私の実感に即して言葉にする、ということだ。

 

逆に言えば、「直感的にとらえ」とは、五感で感じるということだろう。

「論理的に処理」とは、知識や道理に即して言葉にする、ということだろう。

 

何とも、私の思考回路は、面倒くさい思考をしている。

何となくだが、マジョリティな思考ではない気がする。

それとも綺麗に4等分できるのだろうか?

 

何やら、また、見当違いのことを考えている。

もう一度、最初から、だ。

こうして、堂々巡りを繰り返す。

 

それでも、これは「確からしいこと」だろう。

あえて、言い切る。

 

「朝」は朝であり、朝でしかない。

 

堂々巡り、順巡り、日が昇り、朝を迎える。

「朝」は朝なのだ。

論理的にとらえようが、直感的にとらえようが、「朝」は朝だ。

論理的に処理しようが、感覚的に処理しようが、「朝」は朝でしかない。

 

当たり前のことを、ドヤ顔で書くのは、はて誰だろう?

 

何はともあれ、これで良し。