思考を取っ掛かりに考える。
何故、私は思考するのだろうか?
私は求道者として、「私」の追求している。
私にとっては一大事だが、他の人にとっては取るに足りない些末なことだ。
他の人に言わせれば、私がどんな人間であるかなど、「へえ、そう」の感嘆詞二言で終わりだ。
それ以上の感想など、持ちようがない。
私の思考が何か意味あることなのか?と聞かれれば、私にはあるが、他の人にはない。
他の人が普段どのようなことを思考しているのかは預かり知らないが、社会に役立つことや文明の発展することなど、思考することに意味があることが多いだろう。
社会のシステムが成立しているのは、そうした思考の複合が成されたから、と私は考える。
なら、私が思考するのは、どうしてだろうか?
他の人に何の意味のない思考を、私は何故するのだろう?
宇宙規模で考えると。
地球があって、太陽系があつて、銀河系があって、局部銀河群があって、おとめ座銀河団があって、局部超銀河団があって、グレートウォール、ビッグバン宇宙と、何処までも果てしなく大きい宇宙がある。
そんな宇宙で私が「私」について思考していることなど、何の因果もないだろう。
0.005mmの砂粒が「私はどうして砂粒なのだろう?」と思考していたとしても、私は知る由もないし、私の人生に何も影響がないことと同じことだ。
なのに、私は「私」を追求する。
宇宙の拡がりや因果には、全く関係ないのに。
宇宙においては、そも「存在」することが重要なことである予感はあるが、「思考」と「存在」の関連性については、また別にするべきだろう。
地球規模、それも人間限定で考えると。
先に述べたように、他の人が私の「私」の追求に興味はないだろう。
当ブログでは、私の思考を書き綴っているが、私が思考せずに書いても、ブログは成立する。
実際に実験記事にて、思考せず書いた記事を掲載している。
故に私が思考することと、私が発信することはイコールではない。
「思考」から「発信」するまでの間には、自己承認や自己顕示などの欲を満たしたいとする感情があるように感じる。
私は、子孫を残すことが生物の第一義目的だと位置付けている。
故に「食べる」、「寝る」の自己保全や性行為の繁殖は、生物内の遺伝に組み込まれている、と捉えている。
そうした考えから、それら欲が高次元化されて、自己承認や自己顕示などの自己を拠り所にした思考になる、と考える。
一般に「私」の追求は弊害がある。
ネガティブに考えることにより、自己否定が起こる。
自己否定をし続けた先は、自傷やうつ病、対人恐怖症などに繋がる。
子孫を残すことが第一義目的ならば、自己否定をする「私」の追求する思考は、子孫を残すことにおいてマイナスになる。
故に「私」の追求をする思考の私は、生物の第一義目的の側面から見て、社会不適応者となり、結婚はしない方が良い、となる。
地球規模で言えば、思考しない方が人間社会のためなのだ。
ご近所規模で考えると。
私が家に引き込もってうじうじと思考していると、ご近所の方々は私が何かするのではないか不安になるかもしれない。
「私」を追求しています、と言えるのは若い世代で、30歳(2017年3月付け)になろうかという人間が言うには、拗らせていて心配になる。
極端に言えば、危険思想の可能性から地域から排除した方が良い、となることもあり得る。
排除されないようにするためには、私が周りに「私」を追求していると言わないようにする必要がある。
言わなければ、知られることはなく、知られなければ、排除されないからだ。
即ち、私一人の中で、私一人による、私一人のための思考へとより引き篭もる。
ご近所規模でさえ、私が思考する純然たる理由がない。
何故、私は思考するのか?
こういう時、高次元の存在、神さまがそのようにした、となりがちだ。
しかしならば、神さまは何故、私がそのように思考するように希ったのか?
私の問いに対して、「神のみぞ知る」が答えならば、その答えは思考放棄と同義だ。
今までの思考を振り返って、再度、思考する。
すると、一つの可能性が浮かんできた。
生物の第一義目的は、子孫を残すことだ。
生物の第一義目的の子孫を残すことから人間は連続し繋がり、より良い選択を実行し続けた結果、欲の高次元化となり、思考の多様化になった。
現代は「多様化」の時代であり、思考の多様化への進行は自然の摂理だ。
その多様化する中に、「私」の追求をする変わり種ができた。
生物の多様化とは、環境の変化で自然淘汰から逃れるために行われる。
もし、この仮定が正しいとするならば。
あえて、言い切る。
私の追求する思考は、未来の人類を救う可能性がある。
…やはり、神さまのような視点で曖昧になる…
切り口を変えて思考するべきだろう。
人は何故、思考するのだろうか?大変な難題だ。
何はともあれ、これで良し。