私が演劇に嵌ったのは何故だろうか?
以前にどうして演劇をしようとしたのか聞かれたのを思い出す。
その時は、何か自分の中で嵌った感があったから、と答えた。
どうして嵌ったのか、考えて、いつもの答えに行き着く。
詰まる所、自己追求がしたい私に演劇は丁度良かったのだ。
脚本にしても、役者にしても、自己内面を追求するのは同じなのだ。
これは演劇でなくてももしかしたら成立したかもしれない。
私は私の自意識に強い関心をもっており、それを追い求めている。
その追求した発露として、丁度演劇が嵌ったのだろう。
脚本は、書けば書く程に、今までの知識や、経験が滲み出る。
物語だからだろうか、そこに私の影が行間に潜んでいる。
脚本を馬鹿みたいに書いているのは、もっと書き出してしまいたいからだろう。
役者は、私は私でしかないことへの強烈なインプレッションがある。
飛び道具としては優秀なのはそうした私であることへの強みであろう。
逆に私以外の存在、役への没入には二の足を踏み、役者としては三流だ。
最近、自分の嫌な面から逃げない、というのが役者に必要らしいのだ。
嫌な面から逃げず、向き合えば、役者としての深みがでるらしい。
この話を聞いて、自己追求したい私としては望むべくところで、やるしかないのか、と感じている。
自意識に向かっているから、どこに私がいるのか探しているから。
色々な選択肢や、様々なタイミングがあって。
私の中で演劇がカチリ、と嵌ったのだろう。
これが分かっただけでも大きい。
しばらく、自己のその先に潜って溺れようか。
新しい発見がある予感に頬が自然と釣り上がる。
単に私は私の自意識を追求していた。
その方法が形を変えただけ。
詰まる所、それだけのことだった。
私にとっては自明であり、そういうことだった、と腑に落ちている。
さて、クジラ雲の見送って、自意識を考えようか。