ふと、私が感じた不快について書く。
ネガティブな事柄を書くと周りも嫌な気持ちになるだろう。
しかし、私を知っている人ならば各々が自分の感情を処理してくれるだろうと、すっとぼけて書く。
これから書くことは私の幼さの発露でもある。
そも快/不快など原初の感情で、理路の精神から程遠い。
書かずにいられない時点で、私はまだ子どもなのだ。
端的に言えば、当ブログに上げる脚本に対するNさんのコメントについてだ。
Nさんは当ブログで時たまにコメントをしてくれて、私を気にかけてくれる貴重な人だ。
最近の私の心情も変化して、Nさんは「友達」と言って差し支えない存在だ。
当ブログは「詰まらない」を標榜している。
そして、その詰まらないブログにどのようなコメントをしても自由である。
本来であるならばコメントをする労力をしてくれるだけで御の字なのだ。
しかし、不満を子どもの私が抱く。
即ち、内容の「面白い/詰まらない」ではなく、Nさんは「文章が読みづらい、誤字脱字」を指摘する。
そのことがうっすら不快だな、とここ最近感じる。
踏み込んで言えば、当ブログは「詰まらない」ことを骨子に掲げている。
「詰まらない」ブログなので、誤字脱字も読みづらさも含まれる。
わざわざ時間を割いてコメントしてくれて有り難いが、「そこなのか」という的外れ感を覚えてしまう。
大事な点なので何度も書くが、当ブログは「詰まらない」ことが第一義である。
だから、どのようなコメントもそのように感じたのであれば、それが答えだ。
その答えに対して、私は受け止め、考えるだけで本来は終わりなのだ。
しかし、ここで書き散らすのは、何かを表現したい私としての反抗心だろうか?
脚本の内容で「面白い/詰まらない」であるならば、何くそ!と感じても、そこから考えが別に発展する可能性があるし、ワクワクする。
ただ、「読みづらい、誤字脱字」だと「そうですね」で終わって、そこから発展しない。
他の駄文だったらそのまま受け止められる。
「脚本」という形が意外と私には響いてしまうのかもしれない。
創作している私は面倒な部分が強い。
何もコメントがなかったら、それはそういうものだったと流せる。
しかし、わざわざコメントまでしてくれるのに、内容に触れられないのが不快だった。
いや、気になる点が違うのだから、我侭な欲求ではある。
私は内容を注視してもらいたいが、Nさんは文章が気になるのだろう。
一言「私はあなたの脚本の内容はどうでも良いが、文章は改善した方が良い」と言ってくれたら、助かる。
そうしたら、Nさんは私の脚本には興味がないのだな、と割り切って受け止められる。
自身の幼児性にげんなりする。
私は自身の快/不快を言語化したくなる。
言語化できないと何年も引き摺ることになる。
ある事柄を私が書こうとしたら、ストップがかけられた。
事情が事情なので私は当然の配慮として書くのを止めた。
結果、未だに私は引き摺っている、仕方ないけれど。
こうして自分自身の幼児性を発露させて、私は私を保っている。
もう35歳なのに、いつになったら大人に成るのか?
しかし、書き散らすのは快なので、私の精神衛生の観点から止めるつもりはない。
書いてかなりスッキリした。
これを読む人はモヤモヤするかもしれないが。
私がモヤモヤしたことをネチネチ書き散らしてほんのり申し訳ない気持ちはなくはないが、書き散らしたくなる私を止められない。
根本が変わらないから、そういう人間なのだな、と周りが離れてくれるのを望む。
それを分かって適度に付き合ってくれる人間を私は私なりに大事にしたい。
幼い私とバランスを取りながら、私は脳内アクセルを踏み抜く。
駄文書き散らし、6月の梅雨入りの午後にて。