閑話休題。
大量の漫画を前に、現実逃避している休み明け。
明日には借家のオーナーの息子さんが来るのに、まるで片付けられていない。
この現実から目を背けよう、と決意して、ブログ紹介記事を書く。
今回は、読者登録者が81人、実質80人目の方のブログ紹介となる。
ゾロ目の数字である77人目や、88人目の人にしようか考えていた。
しかし、迫り来る現実は無慈悲なので、「私は今から紹介記事を書くのだから」と唱えながら、80人目の人のブログにお邪魔する。
そんなはた迷惑な理由で訪れたブログが、まこっちゃんさんのブログだ。
「一生つなわたりで生きる」とは、自己紹介からすでに腹の据わった人のイメージ。
「遊びと学びの連続」辺りから、私とは人種が違うような気がする。
明るい人なのだろう、と以下の記事を読んでみた。
特に深く考えずに冒頭を読む。
今、あるスタッフの仕事のミスの話になりました。
その学び共有してみる。
(中略)
まず重要だと思うのは、そのミスが起きた理由が、
①良くないと気付いていながら、それと向き合わない自分を許してしまった
もしくは、
②そもそも良くないと気付いていなかった
(本質的な目的に、意識を向けれていなかった)
これを確認すること。
はーん、成る程成る程、先ずは心理から紐解く訳か。
ミスを起こる原因の心理は、大体、どちらかでしょうね。
その上で、こう繋がる。
そして今回の場合、②のケースでした。
てことは、今回のことだけでなく、
日常で起きるいろんなことを、表面的にこなして満足している可能性がある。
なにか起きる出来事とか、自分の仕事とか、時間の使い方とか、
その時にいままでの自分のままでいるのか、
今までの自分の外にちょっとでも出て、世界が広がっていく日々を過ごすのか。
記事の中で、「世界が広がっていく日々」のような言葉が多用されている。
どういった経緯のミスだったか、ではなく、もっと根源の部分、生き方から問うている。
どう生きるかの大枠が、雑であれば所作や動作も雑になり、しっかりしていれば挙動や仕事もしっかりするのは、分かる。
続けて。
もし、今の現状に満足、変化もしたくない、と決めている場合は、それはそれでOK。
しかし、変化したい、成長したい、もっと楽しみたい、遊びたい、と思っているならば、
世界が広がり続けていない今は、非常にもったいない。
認識の世界が広がれば、現実の世界も広がる。
ってことは、学びは最高の、遊び。
上の1行はその他の生き方を認めている。
そこを踏まえた上で、「認識の世界を広がれば、現実の世界も広がる」と信じている。
他の記事にも共通しているのが、この「認識の世界を広げる」こと。
筆者の物の見方や新しい方法について知ることは良しとする姿勢が伺える。
視野が狭いから、どうしてそうしたミスをするのか気付けない。
そして、同じミスを犯してしまう。
膨大にある選択肢で途方に暮れるか、自身が選べる選択肢が限られてくるか。
何れにしても、視野の狭さは、選択肢を前にした生き方の狭さに繋がるのだろう。
そうした「認識の世界」について、こう解釈している。
10枚のカードを想像してください。
あたりは一つだけ、もちろんカードはすべて裏向き。
あたりを引けるかどうかの確率は10分の1、運の勝負ですよね。
そのルールの下で確実にあたりを引くのは、結構難しい。
だけどね、
もしも、カードが表向きだったら?
10分の1だろうが100分の1だろうが、100万分の1だろうが、
答えが見えているのならば、それを認識し手を伸ばせばいいだけ。
この世界って、答えが見えているくじ引きのようなものだと思うのです。
目を背け、耳を塞ぎ、「あたり」を手に伸ばさない。
もしくは、見えているのに、聞こえているのに、「はずれ」に手を伸ばす。
そうした認識があるのではないか?と。
更に。
もしくは、引いたカードを「あたり」と捉えるか、
「はずれ」と捉えるかも人それぞれであり、
その決定権は、実は自分が持っている。
ほんとうは全部が「あたり」のカードかもしれないのです。
正しく、どう認識するか、の部分だ。
「はずれ」を引いた、と捉えるか、「あたり」を引いたと捉えるか。
選択肢を選ぶ前も、選んだ後も、どう認識するかは自分次第だ、と続けてある。
実はそこには果てしなく自由で、広い世界が広がっている。
全てを遊べる自分でいられる。
筆者はそうした自分で居られるように、日々学ぼうとし、認識を広げようとし、遊ぼうとしている。
アグレッシブで楽しい方だな、と私は感じる。
さて、自身について振り返る。
日々、学ぼうとしているだろうか?
認識を広げようとしているだろうか?
自分の人生を全うしようとしているだろうか?
真っ暗な洞窟で、仄かな光を求めて、より深く奥へ奥へと突き進むような生き方をしている。
私が選べる選択肢は、もうないのかもしれない。
膨大にある選択肢の、その何れも選べないかもしれない。
すべての選択肢が「はずれ」かもしれない。
目の前にある「あたり」を、本当に「あたり」なのか、つぶさに見ても分からない。
目の前にある「はずれ」を、本当に「はずれ」なのか、自信が持てない。
目の前の何れも、選べない自分に、落胆する。
そも、選択肢から選ぶような立場なのかから疑う。
本当に私が選択して良いのだろうか?と自分の顔色を伺う。
何万回、何億回、何兆回、私は「私」を疑い続け、磨り減らしていく。
それでも、思考をするのを辞めようとはしない。
ザルで川の砂を浚い、出てくるか分からない金の粒を探すように、思考する。
望みを絶つのも、望みを追い縋るのも、自分次第だ。
まこっちゃんさんは、すべてを遊び尽くすために、認識の世界を広げようとする。
私は、「私」を追求するために、認識の世界を広げようとしている。
帰結する答えが同じようで、その過程や、答えの意味が全く違う。
しかし、「私」を追求する生き方を選んだのは私だ。
そして、すべてを遊び尽くす生き方を選んだまこっちゃんさんの生き方も尊重して然るべきだ。
十人十色の生き方がある。
問題は、その生き方で良し、と納得しているかどうか。
私は、私の生き方を曲げるつもりはない。
まこっちゃんさんの生き方を変えるつもりもない。
本人が、「この生き方でいく」と決められれば、それで良いのだ。
もし、自分の生き方を未だ決めていないのであれば、一つ参考として、訪れて欲しい。
現実は冷淡に見せかけて、激情な顔もある。
好きに生きたら良い、それで良い。
何を選ぶかは、何時だって自分自身だ。
とても清々しい気持ちになった。
ふと、顔を上げる。
目の前に積まれた、漫画の山、山、山。
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選ばない、とはいかないようだ。