「私」の追求をしている私は、最近は地面とは何だろう?と考えている。
そも、「私」とは何だろうか?と考え始めた。
「私」とは、この身体の、肉体の檻に留められているものだろう。
この身体一つを指して「私」と呼んでいる。
「私」という自意識が留めるのに、身体がある。
留めることが「私」を語る上で必要ではないか?
では、留めるとは何だろうか?
身体を留めるイメージで言えば、地面にしっかと立つことだろう、と仮定した。
地面にしっかと立つ、と言うのは、その土地に根差すことだ。
生まれ育った故郷、新天地、そして骨を埋める最後の土地をその時々で定め、その土地で生きていくことだ。
その土地に根差すとは、その土地に留めることである。
身体で言えば、足の裏がその土地の土を捉えている訳だ。
そうした、その土地の土を捉えることが、自意識を捉えること、限定された空間に留めることのイメージとなって、私の中で構築されている。
肉体の檻に留まる自意識だと、抽象している。
その土地の土をしっかと立つは、比喩ではあるが、質感が伴っていて具体し易い。
なら、この「私」を留める身体を捉えているこの地面は何だろうか?となった。
この地面がなければ、「私」に成り得ないのだろうか?
いや、しかし、宇宙に飛び出し、地面からの呪縛から解き放たれた人は、「私」の自意識はあるだろう。
「私」とは関係ないのか?
いや、飛行機に乗るのが怖いと言う人は、地面からの離脱を恐れてはいないか?
元より人間は、地面から離れることはできない。
なら「私」とは無関係ではない?
考えがまとまらない、地面と「私」の関係は確実にあるとは感じるのだが。
詰まらないことを至上命題にした当ブログで良かった。
これが、カフェテラスで「地面とは何だろう?」と30歳のオッサンが言い始めたら、 私は、「何か悩みでもある?ちょっとカウンセリングを受けてみない?」と促すだろう。
因みに、私は悩みはないし、カウンセリングを受けなくても大丈夫だ、多分。
何か閃きが欲しくて、床にごろつきながら、益のないことを考える。