霊を取っ掛かりに考える。
長文のため、「目次」と「続きを読む」の機能を使用する、当ブログでは初めてだ。
記事を読まなくても、結論がタイトルに書かれているから、「そうなんだな」と流してもらっても良い。
どうして、そうした思考に行き着いたかは、本文を読んで頂ければ、何となく分かって頂けるものかと想像する。
全文字数、5700文字オーバーなので、疲れるかもしれない。
大体、8分くらいで読める分量だ。
兎も角、「霊とは何か?」をつらつらと考えているので、お暇ならどうぞ。
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目次
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「文字禍」に出てくる「文字の精霊」とは?
去る2月の25日の日曜日、朗読限定オープンマイクイベントに参加した。
随分と前になるが、霊について考える契機があった。
そのイベントの最初に読まれたのが、「文字禍」である。
「文字禍」は中島敦の短編小説だ。
舞台はミソポタミヤ文明、巨眼縮髪の老儒ナブ・アヘ・エリバ博士が、文字の霊が人間に及ぼす禍いについて研究し、アシュル・バニ・アパル王に進言するものの認められず、最後には文字の霊の祟りで圧死してしまうという物語だ。
下記リンクに全文が掲載されたサイトを見付けたので、興味がある方は一読して頂きたい。
「文字禍」の話自体も中々面白いのだが、私が気になった部分は「文字の精霊」についてである。
博士は最初、書物を調べて、「文字の精霊」が居るのかどうか調べたが、「無駄であった」と落胆する。
博士は自力で「文字の精霊」が居るかどうか、判別しなくてはならなくなる。
以下、博士が「文字の精霊」が居ると判じるまでの話である。
博士は書物を
離 れ、ただ一つの文字を前に、終日それと睨 めっこをして過した。
卜者 は羊の肝臓 を凝視 することによってすべての事象を直観する。彼もこれに
倣 って凝視と静観とによって真実を見出そうとしたのである。その
中 に、おかしな事が起った。一つの文字を長く
見詰 めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯 としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを
有 つことが出来るのか、どうしても解 らなくなって来る。
老儒 ナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思議な事実を発見して、驚 いた。今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。
彼は
眼 から鱗 の落ちた思がした。単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か?
ここまで思い
到 った時、老博士は躊躇 なく、文字の霊の存在を認めた。
魂 によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。
「単なる線の集まりが、そういう音とそういう意味とを持つこと」、「単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを持たせるもの」は、「文字の霊」と博士は認めた、とある。
ここに「手・足・頭・爪・腹等」が「魂によって統べられない」のは「人間ではない」と例を上げ、「一つの例がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを持つことが出来ようか(いや出来ない)」と結論付けている。
私は、この「単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを持たせるもの」という「文字の霊」に興味が湧いた。
確かに、ただの線の集合体でしかないものに、一つ一つ違う音と違う意味があるのは不思議だ。
更に、文字の禍いについて研究を重ねていった博士は、次第に文字の病に犯されていく。
作中で以下のような続きがある。
実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士の上に齎していたのである。
それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を幾日もじっと睨み
暮 した時以来のことである。その時、今まで一定の意味と音とを
有 っていたはずの字が、忽然 と分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。彼が一
軒 の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦 と漆喰 との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。
人間の
身体 を見ても、その通り。みんな意味の無い
奇怪 な形をした部分部分に分析 されてしまう。どうして、こんな
恰好 をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。
人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。
もはや、人間生活のすべての
根柢 が疑わしいものに見える。
この「分析病」なる、「今まで一定の意味と音とを持っていた文字が、忽然と単なる直線の集まりになった」現象が、文字以外にも現れるようになった。
それは建物が「木材と石と煉瓦と漆喰との意味のない集合」となり、人間が「みんな意味のない奇径な形をした部分部分に」なってしまう。
そうした分析病に博士は「人間生活のすべての根柢が疑わしい」と感じるまでになった。
霊とは何であるか?
さて、前置きが長くなったが、詰まる所、単なる線が一定の音と一定の意味とを持つのが霊である、とある。
そして、人間も同様に手・足・頭・爪・腹等を統べているのが魂や霊とあった。
つまり、霊があるから一つの存在、一つの形になる。
逆を言えば、霊がなければ、部分部分の意味のない集合体となる。
この弁を信じるならば、では、霊とは何であるか?が今回のテーマである。
まずは、霊についての定義を調べることにする。
以下、「霊」、「地縛霊」、「守護霊」、「精霊」のWikipedia等の引用である。
れい〖霊〗 (靈) レイ・リョウ(リヤウ)・たま たましい
1.《名・造》肉体に宿って肉体を支配する働きをもつもの。肉体を離れた人間の精神的本体。たましい。「霊がやどる」 2.はかり知ることのできない不可思議な働きがある。神々(こうごう)しく尊い。神聖。「霊妙・霊験(れいげん)・霊感・霊気・霊夢・霊鳥・霊泉・霊薬・霊木・霊地・霊峰・霊場・霊域」
地縛霊(じばくれい)とは、自分が死んだことを受け入れられなかったり、自分が死んだことを理解できなかったりして、死亡した時にいた土地や建物などから離れずにいるとされる霊のこと。
あるいは、その土地に特別な理由を有して宿っているとされる死霊。
守護霊(しゅごれい、英 : guardian angel, guardian spirit)とは、人などに付きその対象を保護しようとする霊のことである。
西洋の心霊主義における「Guardian Spirit」の訳語として、心霊研究家浅野和三郎が提唱して定着したものとされる。
精霊(せいれい)とは、草木、動物、人、無生物、人工物などひとつひとつに宿っている、とされる超自然的な存在。
他に「万物の根源をなしている、とされる不思議な気のこと」。精気や「肉体から解放された自由な霊」を意味する場合がある。
これらのことを見比べて、はたと気付く。
「霊=人間の肉体を支配」
「地縛霊=土地や建物に離れずにいる」
「守護霊=人などに付きその対象を保護しようとする」
「精霊=草木、動物、人、無生物、人工物などに宿っている」
これらの霊の説明に共通していることがある。
即ち、霊は生物無生物に問わず、この世にある万物に留まろうとする点である。
文字においても、単なる線の集まりを統べている点から考えても、間違いではないだろう。
となれば、霊とは、宿る、留めるものと考えるのが自然だ。
なら、何故、宿り、留めようとするのか?
文字は、紙(「文字禍」では粘土の瓦だ)に文字を留めている。
人間は、肉体に精神(魂)を留めている。
文字も人間も、霊が留めた姿、と仮定する。
霊が留めた姿である、文字や人間は、その場に現存する。
つまり、「留まる」という霊の性質自体が意味があるのではないか?
何故、霊はその場に現存、「留まる」とするのか?
私は、前野隆司著「脳はなぜ「心」を作ったのかー「私」の謎を解く受動意識仮設ー」を思い出す。
https://www.amazon.co.jp/脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説-前野-隆司/dp/4480842659
人が「私」というのを作ったのは、エピソード記憶をするためだと著者は語っている。
「私」というアンカーポイントがあり、記憶を想起するのにこの「私」があるという考えだ。
「記憶を想起する」ためには「私」という意識が思い出すのだが、その当時の「記憶を想起する」アンカーポイント、「私」という意識がその当時感じた「感情」が栞としての役割をしている訳だ。
著書では、人間の意思決定は能動的ではなく、受動的であるとする主張がされているが、その点については反論ないし、疑念があるのは知っている。
しかし、私は、この「私」という意識がエピソード記憶をする装置である説は、有りだと考える。
この身体で感じることはすべて「受動」であり、「私」という意識は、身体が受動して感じたことをインプットするのに必要ではないか?と考えるからだ。
私の考えの基、「記憶を想起する」のに「感情」が栞になっていると更に仮定する。
「地縛霊」はその場に留まるのは、「その土地、建物での出来事に執着している」からではないか?
「守護霊」が保護する対象を、何故、保護しようとするか、その背景があると誰しもが考えるだろう。
「霊」においては「肉体を離れた人間の精神的本体」とし、それは「「私」という意識
」と考えても良いのではないか?
その上で、「文字禍」の文字の精霊について考える。
文字は記録している、ただの線の集まりが、一定の音と一定の意味とを持って留まっているのだ。
文字の「記録」から、人間は「記憶を想起する」ことになる。
となれば、文字の精霊は、「記憶を想起する」、当時の空気や情感、つまり「感情」を留めている、とするならば、「感情」がアンカーポイントになって、その場に留めさせている、となる。
霊とは、記録、記憶するために留まっている。
ならば、何故、記録、記憶するために留めようとしているのか?
肉体は、何時かは朽ちてしまう。
書物も、何時かは同じく朽ちていくだろう。
何故、それらを留めようとするのか?
霊が記録、記憶するのは、何故なのか?
記録、記憶とは、その場にいたという証明である。
記録、記憶の反対は忘却である。
霊は忘れられたくないのだ。
では、何故、霊は忘れさせないように留まろうとするのか?
ワンピースのDr.ヒルルクの死に対する台詞が脳裏を掠める。
やめておけ お前らにゃおれは殺せねェよ 人はいつ死ぬと思う・・?
心臓を銃で撃ち抜かれた時・・・違う
不治の病に侵された時・・・違う
猛毒のキノコのスープを飲んだ時・・・違う!!
・・・人に忘れられた時さ・・・!!
私にとって、この台詞は私の死生観に影響を与えている。
もし、忘却することが「死」であるならば、その反対、記憶することは「生」であるはずだ。
とするならば、私はこう考える。
あえて、言い切る。
霊は、現世に「生きた証」を留めようとするものである。
霊は、留めようとするのは、確かにその場に居た、存在していたことを留めようとすることであり、それは、「生きた証」が後の世に記録、記憶して欲しいというものではないだろうか。
確かに存在したことが後世に伝えられることは、大事なことだ。
「文字禍」にも、以下の文がある。
賢明 な老博士が賢明な沈黙 を守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った
事柄 をいうのであろうか?それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
獅子
狩 と、獅子狩の浮彫 とを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。
歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に
誌 されたものである。この二つは同じことではないか。
書洩 らしは? と歴史家が聞く。書洩らし?
冗談 ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ
種子 は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
留めていないことは、「初めから無かった」ことにされる。
霊は、そのことを恐れているのではないか。
霊についての考察の先はまた何れ…
ここから先は、何故、現世に生きた証を留めようとするのか?に至っては、神の領域、生物の本能に挑まなければならない。
「霊」の漢字の成り立ちの説明に「神の心」とする意味があることが明記されており、「神の心」とするならば、「神」という意識とは何か?を論じなければ話にならない。
「神」という意識と、「私」という意識は、同じ仕組みなのか?と考えると楽しいが、何れにしても、現世を全うしよう、生きようとすることに変わりがない、と考え、一度タイトルのように判じ、思考を止めることにした。
ここまでの考察は、万物の本質ではないか、と感じる。
朽ちることが定めならば、それに抗うのは万物の性だろう。
結句、この身体に留めようとする力を信じるか否かの話のような気もするが、取っ散らかる予感がするから、掘り下げはしない。
終わりに。
随分な長文になってしまった。
読んでくださった方々には、感謝の念を送る。
そして、この記事にも精霊が宿り、記録されることを願う。
朽ちるまで、果てるまで、留めて欲しい。
何はともあれ、これで良し。