ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

幽霊が死んでも、私の悲しみは必ず残す。

幽霊の寿命を取っ掛かりに考えてみた。

 

最近の私はTwitterに専ら入り浸っている。

Twitterを始めた当初は呟くことなどない、と考えていたが、今では暇さえあれば覗いている。

慣れだろうか、愚物の成れの果て、今日もちらちらとTwitterを覗いた。


すると、あるツイートに目が止まる。

「幽霊の寿命は400年」という呟きだ。

根拠として、20年ほど前から関ヶ原近辺で多く目撃されていた落ち武者の霊が激減しているとのこと。


20年前から400年遡ると、1600年であり、関ヶ原の戦いがあった年と重なる。

私は霊感がないので知らなかったが、霊が減っていることから推察しているのは斬新に感じた。

幽霊も盛者必衰の理から逃れることができないのか、と悲しさが先立った。


どれだけ想い深く、未練を残して死んだとしても、400年すれば風化してしまう。

一個人の限界、400年後に覚えている人は親類縁者誰一人居ないことを考えれば、留めることができない。

いっそ遺跡に発掘される遺物の方が保存できてしまうのか、とさえ嘆きが止まらない。


しかし、ふと考える。

仮に幽霊に寿命があるとして、幽霊の亡骸はどこにいくのだろうか?

質量保存の法則の則れば、幽霊の魂は別の何かに変わっているのではないか?

 

ぼちぼち書いてまとめてる。

 

 


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私の小さな脳の間から、ぼろぼろの記憶を掘り起こす。

以前、サイエンス誌で「無」について取り扱っていたのを思い出す。

記憶を頼りに恐る恐る書き起す。


宇宙(無)を構成している結合電子対なるものがあって、その結合電子対は陽電子と陰電子からできている。

この陽電子と陰電子が結合して結合電子対となって「対消滅」し、結合電子対が分解して陽電子と陰電子に分かれる「対生成」を繰り返している。

宇宙(無)では、「対消滅」と「対生成」、つまり消えては生まれ、生まれては消える。を繰り返している、だったか。


物理学の理論上、人は壁抜けができるとも別の記事も記憶から引っ張り出す。

結合電子対は途轍もなく小さいから重力の影響を受けず自由に浮いている、とも書いていたような気がする。

その時、紐づいていたことを思い出す。


消えては現れる、壁抜け、宙に浮く。

まるで幽霊のようなだ、と。

そして、そこから導き出す、私の結論は以下の通りだ。


幽霊は400年後に無に還るとするならば。


幽霊になるのに「未練」が作用して、魂が現世に残る。

この「未練」が結合電子対に何かしらの変化すると仮定する。

霊体、結合電子対の変異の集合体がその場に残るのだ。


普通なら対消滅、消えてなくなる結合電子対だが、「未練」によって形体を霧散せずに維持し続けている。

しかし、もともととても小さい結合電子対で構成されている霊体は、普通の人の目では感知できない。

霊感というのは、人よりも電磁波、電波の影響を受け易い人間なのかもしれない。


その霊体の維持が可能なのが、おおよそ400年だとする。

400年経つに連れて、「未練」が劣化し、次第に結合電子対は分解され、無へと還る。

そう、何も最初から無かった、というように消えてしまうのだ。


想像してみたら、やはり悲しくなる。

400年で私のこの想いも、やはり風化、劣化してしまうのだろうか?

神格化、怨霊化の話もあるが、どの程度の「未練」なら耐え得るのだろうか?


私が言葉を紡ぐ理由の1つに、私の「悲しみ」を残したい、というのがある。

この「悲しみ」は風化させたくない。

もしも「未練」さえ風化してしまうのであれば、私は私をもっと疑い、言葉を紡いでいかなければならない。


なんちゃってオカルトから、割と私自身の核の部分も暴き出した。

決して、私は私の「悲しみ」を風化させない。


幽霊が死んでも、私の悲しみは必ず残す。


最後に、平家物語のあの一文で締める。

 

祗園精舎の鐘の声、

諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、

盛者必衰の理をあらは(わ)す。

おごれる人も久しからず、

唯春の夜の夢のごとし。

たけき者も遂にはほろびぬ、

偏に風の前の塵に同じ。