私は何に成りたいのだろうか?
ジュブナイルの悩みのようなことを、30歳が未だに宣っている。
このようなことは、もう終わらせなければならないだろうに。
何者にも成れずに、今、私は生きている。
何にも成れていないのに、生きてしまっている。
ただ生きているだけで良い、と言えるほど「よく生きて」もいない。
何者にも成れないが、何者でもない私でしかない。
何者でもない私は、ある意味で最も自由なのかもしれない。
自由過ぎて、目眩が起きそうだ。
これから、どう行動すれば良いだろうか?
どう足を踏み出し、どう手を動かせば、私は私を全うできるだろうか?
この身体を従えて、また1つ誤謬する。
精神が成熟する日は、来ないだろう。
この問いをし続けて、未だ私は私なのだから。
それでも、尚、問う、私は何に成りたいのだろうか?
人並みの幸せは、多分、訪れない。
しかし、人並みを諦めるならば、十分に幸せで、これからも幸せだ。
人並みでなければ幸せでないのであれば、私は不幸な人間である。
幸福の追求、私の追求、未来への追求に急き立てられる。
追い求めて、追い求めて、何もなかったらどうしようか?
想像が悪さを働いて、私を不安にさせる。
大きく深呼吸をしよう。
そうして、深く眠ろう。
幸せを抱き、私を抱き、未来を抱いてゆっくりとしよう。
何れ、不安になる。
何者でもないことの不安はずっと付きまとう。
しかしあしらえ方は良く知っている、何せ、30年来の付き合いだ。
私は何に成りたいのだろうか?
答えは未だ出ず。
それでも、尚、問う、問い続ける。
何千万回目かの問答の途中だが、投稿する。