あえて、地震のことを書く。
心痛めている人もいることだろう。
それを承知で、率直に考えることがある。
2011年3月11日には、東日本大震災があった。
2016年4月14日には、熊本地震があった。
地震に見舞われた当事者は、FacebookやTwitterで現地の様子を伝えている。
次に来る地震への恐怖や、地震によって喪われた尊い命への悲哀が滲み出ている。
少しでも早く、復興して欲しいとは考える。
しかし、そう考える私で言えば、普通に仕事に出かけている。
昨日などは、馴染みの店でのライブでそこそこはしゃいだ。
その瞬間にも、疲弊している人はいるのに。
関係ない、と言えば、全く私には関係ないのだ。
普通に仕事はあるし、普通に休みを満喫する。
私の日常は何も変わっていない。
ニュースで取り上げられているのは、ブロック塀が倒れたことと、サッカーのワールドカップだ。
地震の気配は、ほんのりとしかない。
地震の影響が少ない所の日常も変わっていない。
考えれば、東日本大震災でも熊本地震でも、地震による私の日常の変化は特にない。
いつも通り、寝て起きてを繰り返していた。
未だに、福島も熊本も復興している最中だというのに。
地震を直撃していないから他人事なのだろうか、と考えてみる。
地震が私の住む地域に直撃し、私の住む家や財産が無くなった、としよう。
それでも私は、多分、いつも通りな気がする。
日本に住んでいれば、地震や津波、台風に豪雪など自然の猛威に晒されるのは前提ではなかろうか?
火山での噴火や山崩れでの土砂災害などその土地での災害もある。
世の中が平然無事な振る舞いをするのは、自然には逆らえないと承知しているからではないのか?
地震によって起きる怖さや悲しみはある。
それはそれとして、地震は何時かは起きるものだ。
ならば、ビクビクしていても、仕方ない。
地震を楽しめば良いのに、と考えなくもない。
そう発言して炎上したラッパーがいたが、その1人だけの考えなら、問題なかろう。
ただ、公共での発言に相応しくないだけ。
地震は全てを変えてしまう、人1人の人生くらい、意図も容易く。
しかし何も変わらない、地震の被害に合わなかった人間には。
災害がある度に悲しみに暮れていられるほど、現実も優しくない。
とかく、私は元気だ。
皆様方も元気だと、嬉しい。
地震に負けない、人間の強さを信じる。
言葉を選んだつもりだが、私の言葉で傷付く人もいるだろう。
当事者でもない私ができることは限られている。
拙い、軽い言葉でしか紡げない。
それでも、あえて、地震のことを書いた。
何も皆が皆、悲しみに暮れることはない、それだけを言いたいがために。
普通であることは、残酷だ。
非難があれば受け入れる覚悟で、投稿する。